自作批評『動物工場』

本作は私の処女作に当たる。出版は『動物と戦争』が先になったが、翻訳はこちらの方が先だった。

制度化された動物虐待の究極ともいえる工場式畜産を多角的な視点から徹底批判し、代わりの道として持続可能な放牧畜産を推奨するという本作の問題提起は、環境・動物問題を学び始めてまだ数年と経たない当時の私に衝撃にも近い感銘を与え、ぜひともこの作品を日本に紹介したい、という意志を抱かるだけの力を持っていた。

それからは出版社を探しながら、なかば憑かれたごとく翻訳に没頭した。漠然としか分かっていなかった畜産の現実を学ぶにつけ、動物の惨状をめぐる想像が頭を離れなくなり、寝床に就いた時には、今こうしているあいだにも動物たちは苦しんでいる、かれらを救うにはまず一刻も早くこの翻訳を世に出さなければ、という思いから床を離れ、作業を再開する日々が続いた。

そうしておよそ8カ月のうちに何とか訳稿は仕上がり、素晴らしい出版社ともめぐり合えたおかげで、その後も様々な難航を経たものの、本作はいよいよ日の目を見た。


しかしながら、本作を訳し始めて出版に至るまでの期間、そしてそれから今に至るまでの期間に、私自身の考えも大きく変わった。正直に言わねばならないが、現在の目で本作を振り返ると、その内容に大きな不満を覚えざるをえない。問題は相互に関連する4つの点にある。

第一に、本作は放牧畜産を推奨するに当たり、極めて妥当性の疑わしい主張をしている。編者を含め、多くの寄稿者らは放牧を「持続可能」な畜産形態と称するが、環境影響だけをみれば、放牧は工場式畜産よりもさらに負荷が大きいとの指摘がある。放牧は工場式畜産に比べ、動物の飼育期間が長くなり、その分、飼料の消費量も多く、飼育に必要な土地面積も大きく、温室効果ガスの排出量も上がる(例えば有機放牧農場の鶏は工場式畜産場の鶏に比べ20%も温室効果ガスの排出量が多い)。特に土地面積に関していえば、仮に現在アメリカで飼われる牛を全て放牧する場合、アメリカ国土の半分を牧草地にしなければならない、といった試算になる。無論、工場式畜産もまた持続不可能なことは寄稿者らの論じる通りであるが、それに代えて放牧という解決案を示すことは大問題である(*1)。

第二に、一部の寄稿者は動物の「資源価値」を論じている。この問題については訳注でも批判を加えたが、特に「遺伝資源」として伝統品種の動物を保護する必要があると訴えるドナルド・E・ビクスビーのエッセイ(第4部)は、動物本来の価値(内在的価値)を尊重する倫理的立場からは到底受け入れられない。

第三に、本作は食と農の分野で活躍する錚々たる顔ぶれを執筆陣に揃えているが、その中に、『フード・インク』などの映画を通し日本でも知られているマイケル・ポーラン、ジョエル・サラティンの名がある。ポーランは人気のジャーナリストであるが、動物の権利論には否定的な立場で、主著の一つ『雑食動物のジレンマ』では菜食の普及に対し無根拠な批判(というより揶揄に近いが)を並べている。サラティンは同書の中で、鶏は神の似姿ではないから魂を持たず、したがって殺してもいいのだと語っている。そもそも彼は、近年まで公然と人種差別的な学則を設けていた保守キリスト教系のボブ・ジョーンズ大学の出身で、自身でも差別主義者を名乗り、移民や女性に対する差別発言をためらわない(*2)。無論、人物とその執筆物は区別すべきであり、この両名がそうした背景を持つからといって、本作『動物工場』に収録された彼らのエッセイがそれを理由に非難されるのは不当であろうが、訳者としては、そうした人物の書いたものを日本に紹介し、ひいては彼らの名と思想を広めることに加担したのは誤りであったと考える。

第四に、最大の問題は、本作が動物の権利論(動物利用を認めない立場)ではなく、動物福祉論(動物利用を認めた上で動物の境遇改善を目指す立場)に立脚していることにある。本作を訳し始めた当時は、工場式畜産という問題がほとんど認知すらされていない日本の状況をかんがみ、本作のようにあえて肉食そのものを否定しない穏健な主張を世に広めることが適切に思われた。放牧に代表されるような、動物福祉に則る「人道的」畜産が、実のところ言われるほど人道的ではないとの主張は当時から把握していたが、その議論はまだ日本で紹介するには早すぎると思っていた。

しかし現在では、上の考えは浅慮であったと反省する。動物福祉の詳細な批判は別の機会に譲るとして(*3)、ひとまず言えるのは、動物福祉が動物の幸福を叶えないということである。なるほど工場式畜産に比べれば、放牧は動物にとって、より苦痛の少ない飼育法であるには相違ない。が、動物の飼育環境が「マシ」になって喜ぶのは人間だけである。工場式畜産を知る者からすれば、動物が体の向きを変えられるようになり、野外で遊べるようになるのは素晴らしいことと思えようし、自分たちが何やら動物たちの幸福を尊重しているような気になれる。のみならず、大企業の支配下にある工場式畜産が縮小すれば、動物性食品の消費者は罪悪感から解き放たれ、企業は動物福祉に配慮しているとの謳い文句を堂々と掲げられ、地域農家は新たな経済機会に恵まれ、人間はみな幸せになれるのだろう――かたや動物たちはこれまでとほぼ同じく、自然の寿命よりも遥かに若くして、工場式畜産場の動物たちと同じ屠殺場へ送られ、工場式畜産場の動物たちよりも更に大きな裏切りを思い知らされた末に屠殺される。それをよりひどい制度的虐待と比較して善いことのように語るのは人間だけで、己の生涯しか知らない動物たちにとっては実のところ何の幸福も訪れていない。これはアフリカの絶対的貧困を念頭に置いて、日本の低所得生活やホームレス生活は「幸福」だと語る以上のナンセンスである。動物福祉は欺瞞と偽善を助長する役割しか果たさない。本作には菜食を勧める記述がほとんど見られないが、動物にとって真にやさしい(さらにいえば環境にもやさしい)この食生活を語らず、代わりに「人道的」畜産なる代替案を示すことは、不徹底というより不誠実といわざるをえない。

もっとも、本作はそもそも動物擁護でなく、食と農の改善、すなわち人間の公益向上を訴える作品であるとの反論は考えられよう。なるほどそうしてみれば、これはこれで工場式畜産の問題を網羅的にまとめた良書といえるのかもしれない(放牧を持続可能な農法と称する虚偽の問題は残るが)。しかし私はあくまで日本の動植物倫理を発展させるために翻訳をなりわいとするものであり、翻訳は海外の関連思想を日本の読者に伝えるための手段に留まる。そしてその考えに照らす限り、菜食でなく動物福祉を推進する本作のアプローチは、少なくとも私個人としては、やはり認められないのである。

最後に、訳者あとがきでも私は失策を犯してしまった。本作があまりに菜食の話を避けるので、訳者あとがきでは菜食の話を前面に出すこととした。しかしその中で、無農薬無肥料野菜の宅配会社「自然栽培そら」を紹介したのは間違いだった。「そら」は本作の刊行後、抗生物質不使用・遺伝子組み換え飼料不使用を謳う豚肉の取り扱いを始めた。これはまさに現代畜産の弊害を避けつつ肉食を継続しようという本作の欺瞞めいた方針の生き写しである。あとがきを書いている最中に、「そら」がそうした事業を始めるとは知るよしもなかったのだから、これは不可抗力ともいえるが、それでもこの企業の名を広めたことは後悔の種となった。


さて、以上で本作の批判を終える。現在の私は、動物擁護論者としての視点から見るかぎり、この作品に良い評価を与えられない。動物福祉を推進する書籍の翻訳・執筆はこれが最初で最後となるだろう(*4)。

……しかしながら、一翻訳家、ないし一私人としての視点から振り返ると、これほど問題を抱える本作に対してさえも、完全には憎み切れない感情がある。翻訳家にとって、自分の訳した作品はわが子のようなものである。本作は出来の悪い子ではあるが、それでも私の子には変わりない。

加えて私は本作の翻訳を通し、実に多くを学んだ。畜産問題の知識や翻訳の技術は言わずもがな、議論の組み立て方、資料の選び方と用い方、効果的な主張の訴え方などは、すべてこの翻訳作業を通して学んだことである(ついでにいえば、人格的に問題のある編者との交渉によって英文メールの書き方も学習した)。この大著を訳した経験が私の基礎学力となっている。その意味で本作は、私の子であるとともに師でもあり、師弟の仲は決裂したにせよ、師に育てられた恩は弟子の心の片隅に残っているのかもしれない。

なお、本作の中でもマシュー・スカリーの書いた「恐怖工場」は、私が愛してやまない作品であることを書き添えておきたい。


*1:例えば Vasile Stănescu, "“‘Green’ Eggs and Ham? The Myth of Sustainable Poultry and the Danger of the Local," In John Sanbonmatsu ed., Critical Theory and Animal Liberation (Lanham, Md.: Rowman & Littlefield, 2011), 239-51 を参照。

*2:Ibid.

*3:差し当たり動物福祉の批判については拙訳『動物・人間・暴虐史』『菜食への疑問に答える13章』『捏造されるエコテロリスト』を参照されたい。

*4:拙訳第4作『屠殺』にも福祉的な視点が垣間見えるが、同書は訴えたいことの趣旨が違うので大きな問題はないと考える。

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