書評『いのちへの礼儀』

人権問題の最前線で戦う活動家が、そのまなざしで動物たちの現状を見つめたら、どのような展望が開けるか――。生田武志氏の新刊『いのちへの礼儀―国家・資本・家族の変容と動物たち』(筑摩書房、2019年)は、そのような試みが持ちうる一つの可能性を示している。本書は大阪・釜ヶ崎の日雇労働者・野宿者支援活動に長年取り組んできた著者が、《国家・資本・家族》という三極構造の変容を軸に、人間動物関係の歴史と現状を分析し、あるべき未来を模索する意欲作である。

議論の出発点は人間による動物の扱いをめぐる古典的な問いにまとめられる――なぜ私たちは一方を愛し、他方を食べるのか。すなわち私たちは犬や猫といったペットを愛しつつ、牛や豚や鶏といった家畜たちを食べる。この当然視されている、しかしよく考えれば奇妙というべき動物たちとの関係に著者は改めて光を当て、犬猫の社会的な位置づけの変遷や肉食の文化史を追うことで、動物たちが「家族の一員」と「資本の一員」に二極化していった経緯を示す。家族に分類されたペットたちは惜しみない愛情を注がれる対象となり、その虐待は犯罪と目されるに至った一方、資本に分類された経済動物の存在は人々の関心から消し去られた。

法的にも社会的にも配慮の枠から外された「資本の一員」たる動物たちは、徹底した生の管理へ向かう権力、生権力の支配下に置かれた。フランスの思想家ミシェル・フーコーは近代における権力の変容を語る中で、死を下すことに象徴された君主の権力が、やがて身体と集団の生を管理する生権力に覆われたと論じた(*1)。いまや動物たちは工場式畜産場の恐ろしい幽閉環境の中、繁殖・成長・動作・摂食・健康等々を綿密に管理され、極大化した生の苦しみを味わっている。著者はその現実を叙する際にも筆を緩めず、動物たちの偽りない生を描き出す。さらに生の管理は畜産に留まらず、ペットの繁殖や登録、野生動物の保護と駆除などにもおよんでおり、ここに国家・資本・家族の変容が生んだ現代の権力の姿を見て取ることができよう。

これらの分析を踏まえ、さらに英米圏で発達した動物解放論(*2)の意義と限界を確かめた上で、著者は国家・資本・家族の構造に囚われた動物たちと人間が、ともに尊厳の剝奪を被っていることに着目し、両者の共闘と新たな解放への道筋を探る。表象または現実の動物たちが現われる文芸作品の読み解きを通し、一歩一歩足場を固めるように進められるその考察を辿る内に、読者は著者の思索を追体験し、隣り合う者としての人間と人外生命たちに私たちがいかなる礼儀を尽くすべきかを、みずから問い、考えることとなるだろう。


人間動物関係に行き渡る管理のロジックを生権力の働きと捉え、その根底をなす国家・資本・家族の公理系を覆すべく人間と動物の共闘を呼び掛ける本書は、壮大にして果敢な現代への挑戦状である。動物におよぶ生権力の働きについては批判的動物研究の中で近年盛んに論じられているが、日本においてまとまった議論を提示したのは、おそらく本書が初ではないか(*3)。生権力の問題はこれまで主に人間の管理・改造を論じる文脈で扱われてきたが、動物利用における生の管理はそれより遥かに歴史が長く、細部におよび、規模も大きい。本書を嚆矢に、さらなる分析が進められ、動物利用の病弊に光が当てられることを期待したい。

著者・生田氏のこれまでの業績に関連して注目されるのは、資本や家族の一員とされた動物たちが、社会の一員とはみなされないという指摘である。福島を例にとれば、震災と原発事故が発生した折、動物たちは置き去りにされ、避難所に受け入れられず、経済価値を失った家畜たちに至っては「安楽死処分」の名のもとに葬られる顚末を辿った。これは1990年代までに野宿者の多くを占めていたという日雇労働者たちの境遇にも重なる。生田氏の先行著作『釜ヶ崎から』(*4)によると、建設土木に携わる日雇労働者たちは、大規模建設プロジェクトや好景気の到来によって仕事が増えた際に労働現場へ駆り出され、プロジェクトの終了や景気後退によって仕事が減れば放っておかれる。長期にわたって仕事にあぶれた人々は野宿生活を余儀なくされ、行政の生活保護も病院の医療も満足に受けられなくなったあげく、世間の人々の偏見と差別にさらされる。「労働力の調整弁」「景気の安全弁」とされるこの日雇労働者たちは、まさに資本の一員として搾取されながら、社会の一員として世間の承認を得られない立場にある。私たちはこの人々を労働商品として使い倒し、その労働成果の恩恵に浴しながら、経済価値を失ったかれらをためらいなく社会から排除する。動物の扱いと人間の扱いに共通してみられるこの構造的暴力もまた、人間と動物の共闘によって克服すべき課題に数えられよう。

本書の魅力は多数挙げられるが、日本の動物問題を広く押さえていることも大きな特色の一つである。世間を騒がせた動物虐待事件に始まり、ペットの生体販売と殺処分、工場式畜産、外来種問題、捕鯨論争、動物の軍事利用、戦時猛獣処分、震災に伴う動物放置まで、その内容は極めて多岐にわたる。しかもこれだけの話題を扱いながら、少しも叙述が煩雑にならず、しかるべき論理の流れに沿って個々の事例が配置されることで、全体が一つの動物論を構成しているのは、著者の類まれな手腕がなせる業だろう。断片的に伝えられてきた日本の動物問題を体系的に振り返る上で、本書は重要な役割を果たすに違いない。

次に、本書は欧米圏で発達した動物解放論を真摯に受け止め、批判的評価を試みている。従来、日本ではこれらの理論が冷笑的な態度で扱われ、そのせいで実のある動物倫理の発展が妨げられてきた。著者はそのような傾向の不健全さを正し、動物解放論の意義を踏まえた上で、現代の要請に適った新しい動物倫理の必要性を唱える。

動物実験の廃止運動や震災発生時の動物救済など、草の根の動物擁護団体が進めてきた取り組みを収録している点も意義深い。このような民間努力は得てしてアカデミズムの世界で看過ないし過小評価される傾向にあるが、動物たちの境遇を改善してきたのは常に(業界の自発的措置ではなく)市民らの活動であった。その意味で、本書は動物倫理をめぐる学的議論に、欠かすことのできない層を付け加えたといえる。


以上のように、本書『いのちへの礼儀』は、私たちが動物たちとの関係を考えるに当たり、多くの示唆を与えてくれる。が、著者の洞察からさらに議論を進めるためにも、ここで3点ほど問題提起を行なっておきたい。

第一に、著者は20世紀の畜産革命に生権力の台頭を見出し、これをフランスの思想家ジル・ドゥルーズが示した「管理社会」の議論に繫げる。ここでいう管理社会とは、ソフトウェアを駆使した精密な「開放型」管理が主体となる社会を指し、動物産業の分野では各種IC機器やAIを応用した最新の放牧飼養などがその例とされる。そこで著者は、かつての「屠畜場」=「フォードシステム」=「強制収容所」という「死の工場」が、いまや「畜産革命」=「ソフトウェア社会」=「管理社会」という「生の企業」に交代したとみる。

しかしドゥルーズによる「管理社会」の議論を動物利用に当てはめる場合、畜産革命を二つの時期に分けた方が見通しが良くなるように思えた。すなわち、初期の工場式畜産は規格品の大量生産モデルに則り、可能な限り均質な畜産物を社会全体に行き渡らせることを目標としたが、今日の畜産業界は、工場式畜産を一大オプションとして残す一方、動物福祉や食の倫理を訴える市民運動の興隆、あるいは高級志向を追い求める消費者の台頭を受け、ニッチ市場を狙った果てしない商品の細分化へと向かっている。その消息を如実に伝えるのが、意識的消費を心がける客層へ向けた特産ブランドや「有機」「地場産」「人道的」畜産物の目もくらむようなラインナップの数々である。批判的動物研究では、この変化をフォード主義からポスト・フォード主義への転換と捉えるが(*5)、ドゥルーズのいう「管理社会」はポスト・フォード主義を指すと考えられる。畜産革命が工場式畜産の発達を意味するのだとすれば、これを「ソフトウェア社会」=「管理社会」とイコールで結ぶよりも、むしろ「死の工場」の時代に当たる前期、「生の企業」の時代に当たる後期に分けるか、あるいは「生の企業」の時代を「ポスト畜産革命」と位置づけるのが適切と思われるが、いかがだろうか。

第二に、著者は畜産革命に伴う屠殺の高度化・洗練化によって、動物のストレスと死の苦しみが最小化したとの見方を受け入れた上で、工場式畜産ではその代わり、生の苦しみと尊厳の剝奪が極大化したと論じる。生の苦しみと尊厳の剝奪が極大化したのは確かであるが、屠殺の工業化によってストレスと死の苦しみが最小化したかは検証を要する。動物たちは屠殺に先立つ移送の段階から脱水や死に見舞われ、屠殺場では日常的にスタンガンで追い回され、雪の降りしきる真冬であっても冷水で体を洗われる。屠殺室へ入った動物たちは仲間が殺される状況を目の当たりにしながら恐怖と絶望を味わう。高速で稼働する鶏の屠殺ラインでは、しばしば失神処理用の浴槽に浸かることを免れた鶏たちが、意識あるまま喉を切られ、喉切り用のカッターをもかわした鶏たちは、意識あるまま熱湯浴槽に沈められて焼き殺される。牛や豚の屠殺ラインでも未熟練労働者のミスによって失神処理を受けないまま喉切りへ向かう動物たちが後を絶たない。最も「人道的」とされる屠殺方法においても、動物たちはガス室の中でもがき苦しみながら息絶える。動物擁護団体が肉食自体への反対という主張を抑え、本意に反して屠殺場の環境改善などを訴えるのも、現状があまりに劣悪を極めるからにほかならない。例えば以下の映像を参照されたい。

テンプル・グランディンらは屠殺場が自然界よりも慈悲的な死を与えると言い張るが(*6)、実際の屠殺工程はそれほど生やさしいものではない。死に瀕した動物たちが苦しまないという言説は、肉食産業やその関係者が消費者を安堵させ、自己正当化を図る際に用いることが多く、信頼するのは危険と思われる。

最後に、本書後篇では人間と動物の共闘の一例として、「希望の牧場」の活動が紹介されている。希望の牧場は福島の原発事故により経済価値を失った牛たちを生かすことで、国家と資本に対する不服従の意を示す取り組みと位置づけられる。葛藤しながらも牛たちを生かす人々の努力を、私は否定しようとは思わない。が、人間動物関係の全体を見渡す時、より重要な意味を持つのは、経済価値を失った動物たちもさることながら、経済価値が「ある」動物たち、資本に組み込まれた動物たちにどう寄り添うか、という問いではないだろうか。希望の牧場は原子力産業という資本に対抗する。しかし動物産業という資本についてはどうか。動物たちの苦しみの源泉はむしろ動物産業であり、それがなければ畜産動物たちやペット動物たちはもとより災害の巻き添えになることもない。被災した牛たちが、経済価値を失ったがゆえに初めて生きものとして、守るべき命として認められたという事実は、一種の皮肉を含んでいる。災害がなければ農家たちはなお、かれらを商品として扱っていたはずだからである。私たちが考えなければならないのは、人間目線で「全てがうまく回っている時」に、搾取経済の歯車となった動物たちとどのような共闘を築けるか、であろう。

そして私見では、それこそがまさに動物解放論の追究してきた課題なのだと考える。著者はドナルドソンとキムリッカの議論(*7)に即し、動物解放論は人間の動物利用を否定する結果、人間と動物を隔離してしまう傾向があると指摘する。これは動物解放論の主張が人間と動物の「棲み分け」を訴えることなどに原因があり、誤りとは言い切れない。が、動物解放論はあくまで搾取関係を否定する主張であり、人間動物関係の全てを否定するものではないと私は捉えている。利用し利用される関係がなければ何の関係もないということにはならない。動物解放論を支持する脱搾取派(ビーガン)の人々は、動物製品を食べない、着ない、使わないという生活を送るが、それは動物たちとの関係を断ち切っているのではなく、むしろ動物たちと緊密な精神的連帯を築き、意識の上で共闘しているがゆえの行動である。これもまた一つの関係であろう。

加えてドナルドソンとキムリッカ自身が指摘する通り、人間と動物の完全な隔離は、望んだとしても叶わない。世界の人々が脱搾取派になれば、産業に組み込まれた動物たちはいなくなるか、あるいは大幅に数を減らすだろうが、私たちはその後も、人間と人外生命の犠牲をさらに少なくする生活――農業や移動や消費行動――のあり方をめぐり、日々試行錯誤を重ねるに違いない。ここにもまた、多様な生きものたちとの関係がある。

動物利用の全廃は人間動物関係の消滅を意味せず、支配構造を脱した新たな関係構築への道と理解するのが妥当と思われる。その意味で、廃絶主義の動物解放論を深化させることもまた、国家・資本・家族公理系に対抗する人間と動物の共闘として位置づけられるのではないだろうか。


思うところを忌憚なく述べてみたが、体系的な動物論の著作が乏しかった日本に、本書が登場した意義は極めて大きい。著者は動物利用の肯定という予め定まった結論を支えるための諸々の美化・欺瞞・事実歪曲をしりぞけ、透徹した目で動物たちの現状を見つめ、病理の克服を目指す。理論的洞察と実践的関心を兼ね備えたこの探究は間違いなく、人間動物関係の倫理をめぐって建設的な議論を喚起する力を持つ。本書が市井と学界の区別なく、多くの人々に読まれることを願いたい。人間と人外生命の解放理論として、本書は記念碑的価値を宿すだろう。


*1 用語集の項目「生政治」を参照。さらに詳しくはミシェル・フーコー/渡辺守章訳『性の歴史Ⅰ 知への意志 』 (新潮社 、1986年)ならびにミシェル・フーコー/石田英敬、小野正嗣訳『社会は防衛しなければならない』 (筑摩書房、2007年)を参照。

*2 以下、本稿では動物の権利論やその他の動物利用反対論を含めた広義の意味で「動物解放論」の語を用いる。動物解放論と動物の権利論の区分については用語集を参照。

*3 過去の試みとして、青土社の雑誌『現代思想』の2009年7月号「特集=人間/動物の分割線」には、生権力を扱ったエッセイ数編が収録されているが、表題から察せられるように、それらの考察は主としてフーコーよりもアガンベンの生権力論にもとづく。

*4 生田武志『釜ヶ崎から―貧困と野宿の日本』筑摩書房、2016年。

*5 例えば John Sanbonmatsu, "Introduction," In John Sanbonmatsu ed., Critical Theory and Animal Liberation (Lanham, Md.: Rowman & Littlefield, 2011), 1-32 および Nicole Shukin, Animal Capital: Rendering Life in Biopolitical Times (University Of Minnesota Press, 2009) を参照。 

*6 例えばテンプル・グランディン+キャサリン・ジョンソン/中尾ゆかり訳『動物が幸せを感じるとき―新しい動物行動学でわかるアニマル・マインド』(NHK出版、2011年)を参照。

*7 スー・ドナルドソン+ウィル・キムリッカ/青木人志、成廣孝監訳『人と動物の政治共同体―「動物の権利」の政治理論』尚学社、2016年。


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