正義の拡張をめざして~ 交差性理論の実践2
<「正義の拡張をめざして~ 交差性理論の実践1」はこちら>
交差性とビーガニズム――思考の輪を広げる
クリス・コーマー、VLCE(ビーガン生活スタイル&コーチ教育者) 2021年7月13日
先日、ある有名なビーガンの活動家がファストフード店でパフォーマンスを実施した。毎年食用として屠殺される動物たちの悲惨な扱われ方に注目を集める行為は素晴らしいとされるが、この活動では店の床に血糊をまくということが行なわれた。何が問題なのか、と思うかもしれない――何にせよその人は動物たちの惨状に注目を集めたじゃないか、と。では、その活動で影響を受けた人々はどうだろう。そこにはこの大変なポストコロナの世界で生活のためにわずかな賃金を稼ぐ労働者たち、食事をとりに両親と店を訪れた子どもたちもいる。この状況でその人々は配慮を受けただろうか。誰が汚れた床を綺麗にするのか。当の時給労働者たちだろうか。血糊の光景は子どもたちにどんな影響を与えただろうか。
もしもあなたのビーガニズムが動物たちだけに注目したものなら、その思考の輪を広げ、畜産業のサプライチェーンに影響される全ての脆弱な者たちをそこに包摂してほしい。これはごく単純な交差性の例にすぎない。ビーガニズムに関係する交差性の一つは、動物たちのために声を上げるとき、他の周縁化された集団におよぶ影響を考えることからなる。これがはっきり分かるのは、酪農業への抗議で「母から子を奪う」という例を用い、このビーガン的認識をフェミニズムの問題でもあると再定義したときだろう。この例はビーガニズムと女性の権利の重なりを示している。
ビーガニズムを交差的なものへと拡張するにはどうすればよいのか。ビーガンの認識を振り返り、思考の輪を動物以上に広げてみると、やがて分かってくるだろう――真に動物たちを擁護するには、性、能力(障害)、貧困、教育、宗教、階級、国籍、民族、年齢、ほか多数の概念を視野に入れなければならない。単一争点の闘いはありえない。私たちは単一争点だけの生活を送ってはいないのだから。
ビーガニズムは動物だけの問題だと信じる人々もいる。有色人種の女性である私は、そのレンズでビーガニズムを捉えることができない。思い出すのは、ある献身的な人々と議論した折に、その人々が奴隷制のたとえを持ち出し、私の琴線に触れて動物たちの惨状に目を見開かせようとしたことである。ユダヤ人の友人たちも同じく、会話の中でホロコーストと動物たちの惨状を対比されたことがあると語っていた。こうした方法は真逆の効果を生み、聞き手の耳目を塞ぐことになりやすい。なぜか。当の比較は、そこでいわれる恐ろしい経験を生きのびた祖先を持つ人々にとって、人間性を否定する不愉快な言葉だからである。あなたの活動が相手の気持ちを汲んだものでなければ、効果は薄く、活動は失敗に終わるだろう。それは動物たちのためにならず、関わった人々すべての時間を無駄にする。
ビーガニズムはすべての者を視野に入れ、さまざまな周縁化された集団の観点と声を包むものでなければならない。私たちはみな、ともに闘っているのであり、張り上げる声が一つになれば、それは大音響となって、私たちの影響力を強め、世界により大きな変化をもたらす。ではどのように思考の輪を広げれば、私たちのビーガニズムと活動をより交差的にできるのだろうか。加えて私たちは交差的な生をも生きなければならない!
1. 人の輪を広げる
友人たち、活動仲間、ビーガン仲間を見回してみよう。みんな自分と似た者同士だろうか。もしそうなら、そこからは同じ考えしか生まれない可能性がある。異なる意見、方法、思想を求めるなら、異なる背景と異なる関心を持つ人々との交流を深めよう。きっと今とは違う観点がやしなわれる。
2. 質問をして返答をよく聴く
自分とは異質な人と会話をする際は、相手の返答をよく聴くように努めよう。特に相手の言うことが自分の思想や信念と違うときにこの姿勢が要される。もしあなたのたとえが不快だと言われたら、かたくなになって自分の発言に問題はないと言い張るのではなく、別のたとえを用いよう。
3. 成長の機会を見逃さない
動物たちは反論できないので、かれらのために声を上げることはたやすい。ビーガンとしての思考の輪を広げ、他の周縁化された集団に視野を広げると、不快な状況に行き当たるかもしれない。その感覚が成長である――そこに入っていこう。誠実であるかぎり、あなたの疑問はおそらく歓迎される。新たな友をつくることすらできるかもしれない(提言1を振り返ってほしい)。
今日、ビーガンとしてのあり方は一通りではない。けれども動物たちを思考と行動の主軸に据えつつ、思考の輪をさらに広げ、畜産業のサプライチェーンに囚われた他の存在たちをも包摂すれば、道を踏み誤ることはありえない。
元記事リンク:https://mainstreetvegan.com/intersectionality-and-veganism-expanding-your-thought-circle/
訳者補足
本記事の冒頭では近年多様化している直接行動(direct action)への批判が示されている。これを読んで思い出したのは、先ごろ日本で行なわれた、小学校前での屠殺反対アクションである。当の活動では小学校の前で動物たちの惨殺写真を陳列し、子どもや教育者らに肉食の再考を促すということが行なわれた。これは物議をかもし、写真を見た子どもたちにトラウマを与える可能性も議論された。
訳者は上のような街頭活動を積極的に推進したいとは思わないが、それに対する世間の批判はシュールだと感じた。残酷画像による子どもへの影響は考慮されるべきかもしれないが、それはこの社会に蔓延する無数の暴力的表象に対する批判と一体でなければならない。現代社会を見渡してみれば、映画や漫画では当たり前のように鮮血が飛び散り、人々が無残に殺され、地球が何度も滅びている。と思えば町のそこかしこには女性をモノ化した露骨に性的/性差別的なイメージもみられる。上に挙げた屠殺反対アクションはAbemaTVという討論番組で特集されたが、そこで声高に活動を非難していた芸能人の田村淳は、盗撮や詐欺メールの手法を駆使した下劣なお笑い番組「ロンドンハーツ」や、外来種の殺戮を楽しむ動物虐待番組「池の水ぜんぶ抜く大作戦」などに出演してきた。子どもたちの人格を破壊するという点では、日本社会に空気のごとく浸透したこれらの表象のほうが、草の根の活動家による小規模なパネル展示よりも遥かに有害である。それらを批判しない非ビーガンの大衆が、こと動物擁護活動に対してのみ「子どもへの悪影響」を理由に抗議の声を上げるのは滑稽以外の何物でもない。社会正義の支持者らがみずからや互いの取り組みを交差的観点から検討するのは重要なプロセスに違いないが、もとより社会正義に何の関心もない者が、ただ正義の要請をしりぞけるためだけに子どもなどの「弱者」を引き合いに出すのは見苦しい振る舞いである。本記事は動物擁護を支持するビーガンの著者が、みずからもその一員であるところのビーガン・コミュニティに内省を促すつもりで書いたものであり、世間一般のビーガン批判とはまったく異なる問題意識に発している。
本記事はさらに、奴隷制やホロコーストなどの人間抑圧と動物搾取を対比することにも筆誅を加える。これに関しても補足が必要だろう。動物擁護を支持する人々は、こうした対比を不愉快と感じる人々に対し、「そう感じるのはあなたが動物を下に見ているからだ」と答えるかもしれない。確かにそれも一理はあると考えらえる。動物と人間の対比といわず、人間同士の対比でも同様の現象はしばしば生じる。スーザン・ソンタグがサラエボで写真展覧会を開いたとき、サラエボ人は自分たちの紛争被害を写した写真がソマリアの写真と並べられていることに不快感を示した。これも人種差別なしには生じえない感情だろう。他者を差別しているからこそ、暴力の対比が不愉快に感じられるという側面は確実にある(ソレンソン『捏造されるエコテロリスト』320頁を参照)。
が、哲学者のマシュー・カラーコは、この現象の背景に「別の力学」が働いていると指摘する(Calarco, Beyond the Anthropological Difference, p.23を参照)。つまり、動物擁護に取り組む活動家や団体が、他の社会正義に対する真摯な連帯に努めていなければ、暴力の対比は良くて他の闘争の流用、悪くすると特定の人間集団の非人間化と受け取られることを免れない。そして実際のところ、動物擁護に取り組む活動家を見渡せば、人権感覚が疑われる人物は決して少なくない(もっとも、公平を期していえば、これは他の社会正義に取り組む人々も同様で、ある人権問題と闘う人々も別の差別や不正に無反省でいることはよくある)。また、人種差別や植民地主義の犠牲者となった歴史を持たない人々(それどころか人種差別や植民地主義を率先して支持してきた歴史を持つ人々)が、ことさらに黒人奴隷制やホロコーストばかりを動物搾取と対比させることも誤解を深める一因だった。もろもろの人間抑圧が動物抑圧と思想的・文化的・技術的に深く結び付いていることは事実であるが、その議論は言葉だけでなく実践を伴った総合的正義の文脈で示されなければならないだろう。
最後に、本記事の著者は自分と異なる集団に関わる中で「不快な状況に行き当たる」ことがあると指摘する。これはおそらく、人々が得てして「当事者」の声を聞きたがらない大きな理由の一つになっている。すなわち、異性愛者の多くは性的マイノリティ当事者の著作物を読みたがらず、健常者の多くは障害当事者の著作物を読みたがらず、もちろん、非ビーガンの多くはビーガンの著作物を読みたがらない。代わりに世の多数派は、往々にして当事者の「代弁」を務める非当事者の著作物を読み、マイノリティや被抑圧者の状況を分かった気になる(この記述を読んで既に耳が痛くなっている人もいるかもしれない。「不快な状況に行き当たる」とはそういうことをいう)。マイノリティの言葉は、多数派が自明視するもろもろの事柄を辛辣に批判することがあるため、耳障りに響き、苛立ちを覚えさせるかもしれない。かたや代弁者のまとめは多数派の視点にとどまっているため、当事者自身の訴えよりも受け入れやすく、「冷静」 で「中立的」に思えることすらある。しかし私たちが正義の拡張ということを真剣に考えるのであれば、多数派の快適ゾーンを抜け出し、努めてさまざまな当事者の語る「不快」な言葉に向き合おうとするプロセスが何としても必要になるだろう。
【関連図書】
井上太一著『動物倫理の最前線─批判的動物研究とは何か』人文書院、2022年。交差性については特に第五章を参照。
パトリシア・ヒル・コリンズ+スルマ・ビルゲ 著/小原理乃訳、下地ローレンス吉孝監訳『インターセクショナリティ』人文書院、2021年。
『現代思想2022年5月号 特集=インターセクショナリティ』青土社、2022年。
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