岡崎佑香『ヘーゲル哲学と性』に関する覚書――性売買の認識をめぐって

岡崎佑香氏の著書『ヘーゲル哲学と性』(人文書院、2026年)は、ヘーゲルの文献から性に関する考察や見解をつぶさに集め、彼が性別二元論や性別本質主義についてどのような認識にあったかを検証していく画期的な著作である。

しかし、私は以前の紹介文で、あえてその問題点についても指摘した。それは本書の中核に関わる議論というよりは、それを踏まえたうえで手短に論じられる「補節」への疑問である。ここでその論点を整理しておきたい。


疑問箇所

「補節――ヘーゲルとともに、ヘーゲルに抗する」(pp.248-257)の中で、著者は女性の家事労働と「性的職務」に関し、S・フェデリーチやG・F・ダラ・コスタといった運動家たちがどのような議論をしてきたかを振り返る。そして、今日の社会では主婦の家事労働が他の女性に「外注」されていることに言及する。すなわち、現在の資本主義体制においては、先進諸国の女性たちが家事労働から「解放」される代わりに、「とりわけアフリカ、アジア、ラテンアメリカ、そして旧社会主義諸国出身の移住労働者の女性たちにより劣悪な条件でそれを担わせるという『新たな植民地的解決策』が展開されている」(p.252)。ここまでは特に異論はない。

私が疑問に思ったのは、その直後に同じ段落内で展開される「セックスワーク」についての議論である。著者はいう。


「売春」は世界中の多くの国で部分的・完全な犯罪化、「需要根絶」を狙う非対称的犯罪化、あるいは規制(合法化)の下で現在もなお刑法と結びつけられている。セックスワークは今日においてもなお労働の範疇から除外され、道徳的非難やスティグマ化、さらには犯罪化に曝され続けているのである。(p.252)


そして「現代においてもなお労働力再生産としての『性行為(セックス)』は典型的には妻がその夫に遂行すべき『愛の労働』であるとされて」いる、との認識を著者は示す(ibid.)。


論理展開に関する疑問

私の読み違いでなければ、上のくだりでは著者の問題意識に奇妙なねじれがあるように思われた。

同じ段落内で、著者はまず、家事労働が先進国の女性から第三世界出身の女性たちへと「外注」(アウトソーシング)されていることを「新たな植民地的解決策」として問題視する。

しかしそれに続けて著者は、「性的職務」が妻による夫への「愛の労働」にとどまっていることを問題視している。

後段の議論を素直に読むと、著者は「セックスワーク」(性売買)を非犯罪化して「外注」できるようにすることを求めているように思えるが、そうだとすると、それは家事労働の「外注」を問題視する前段の議論とどのように嚙み合うのだろうか。セックス以外の家事労働を「外注」することが「新たな植民地的解決策」である一方、セックスの「外注」である性売買が「新たな植民地的解決策」とならない理由が見えてこなかった。


事実認識に関する疑問

もう一つの問題は、性売買に関する著者の認識である。著者は「セックスワーク」が犯罪化やスティグマ化の標的とされている結果、セックスは妻による「愛の労働」の枠に収められていると論じているように見える(「結果」とは書いていないが、文章構成からはそのようにしか読めない)。

しかし現実をみると、性売買を利用する客(以下、買虐者)の多くは、妻や子のいる男性である。つまり性売買と妻による「性的職務」は「両立」するものであって、前者の社会的扱いが変わったところで妻の「性的職務」がなくなる保証はない。例えば谷口和憲『性暴力のない社会へ』(「戦争と性」編集室、2026年)から、買虐者の言葉を引用したい。


フィリピン人に本気になること? 絶対そんなことはない。家庭が大事なんや。家庭を壊すようなことはせん。あくまで、遊びでフィリピンに来とるから。それはうちのもん(妻)もよう知っとる。こそこそと遊びはせえへんのや。「お前がいちばん大切。ほかの女とはあくまで遊びやから、心配せんように」と言うてある。……それで、女の子とソクソクしたあと、モーテルから「もうすぐ帰るからお茶漬けつくっといてくれ」言うて電話するんや。そしたら、ちゃんと用意してあるんや。(p.77)


これが「セックスワーク」の、そしてその「ユーザー」ないし「顧客」の実態である。性売買がスティグマ化されていようと犯罪化されていようと、男たちは女性を買う。そして妻にも奉仕をさせる。むしろ男性の買虐習慣はそのセクシュアリティにも影響し、パートナーとの性行為をいっそう搾取的・非人間的なものへと変える(例えばバリー, 2024, pp.84-92ジェフリーズ, 2025, pp.78-87を参照)。加えて上の引用にも表れているように、「セックスワーカー」を貶め、さらに妻をも貶めているのは、「セックスワーク」の推進者たちが懸命に擁護しているところの買虐者たちである。


ヘーゲル哲学における性の位置づけという主題に関して、本書は貴重な研究成果を残したに違いない。しかし、性売買に関する著者の議論と認識には大きな問題があると思われた。現代フェミニズムにおいては不条理にも「セックスワーク」の推進論がメインストリームとなっているが、メインストリームであることは議論の正当性も整合性も担保しない(むしろメインストリームは一過性で、しばしば誤る)。この争点に関しては、性売買廃絶派の文献も参照しつつ、批判的な再検討が行なわれることを期待したい。


追記

ダラ・コスタらに即した著者の主張は、

  1. 家事労働の多くは「外注」されている
  2. 他方、「セックスワーク」は犯罪化されている
  3. よって、妻の家事労働の中核は「性的職務の遂行」である

ということかもしれない。

しかし、それならそれで、やはり「性的職務」が現在でも普通に「外注」されていることを考える必要があるだろう。「セックスワーク」がスティグマ化・犯罪化されているとしても、妻のいる男たちが普通に買虐を行なっている以上、前提1と2から「妻の家事労働の中核は性的職務の遂行である」と結論することは難しいと思われる。

またもう一つ言えば、グローバルな規模で家事労働の「外注」が行なわれていることは確かであるが、少なくとも日本に暮らす主婦の多くは「外注」などできず、ほとんど家事労働から解放されていないように思う。著者は第三世界出身の女性搾取以外に、洗濯乾燥機やロボット掃除機や食洗機などの機械による家事代行にも言及しており、それらは「今日の生活にほとんど不可欠なものとなっている」と論じるが(p.252)、これらの神器を持てるほどの裕福で特権的な家庭はそれほど多くないのではないか(なお、拙宅にはこのいずれもない)。したがって前提1も、どこまで妥当か再検討が必要と思われる。




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