伊勢田哲治氏に答える③
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動物倫理学の使命
「人間主体に排他的な尊厳を認める道徳理論が、動物への暴力を容認してきた思想的な土台であるとするなら、動物倫理学は本来、それに代わる新たな枠組みの構築を使命としなければならない」という文に対し、伊勢田さんは「この『本来』もどこからきた『本来』なのか」と問うが、なぜそれが分からないのだろうか。「動物への暴力を容認してきた思想的な土台」を変えないままでは動物倫理学も動物への暴力を容認する現状肯定的な帰結に至り、ひいては何のための探究活動なのかも分からなくなってしまうのだから、それに代わる枠組み、つまり動物への暴力を容認しない枠組みをつくることは、動物倫理学が倫理学として存在意義を有するための最低条件となる。
「井上氏がめざす方向にそれ以上の意味があるかのように見せるために『本来』という言葉を使っているだけではないのか」といった邪推は、これまた伊勢田さんの権威と相まって読者を同じ思考に誤導する印象操作でしかないのでやめてほしい。
人間主義と人間中心主義をめぐる争点
「人間主義と訳していることばの原語はヒューマニズムだと思うが」とあるが、初出の「人間主義」にははっきり「ヒューマニズム」のルビを振っている(p.177)。それはさておき、ドグマ化したヒューマニズムが健常なエリート成人男性を頂点とする序列思想になり、ひいては人間中心主義に同化したという議論に対して、伊勢田さんはこう指摘する。
「ヒューマニズム」を掲げる思想の多くは、むしろ「心身ともに健常なエリートの成人男性を頂点」とすることに異議を唱える立場にあるのではないか。
生物種としてのホモ・サピエンスを優位に置く思想はなんと呼べばよいのだろうか?少なくとも環境倫理学ではこの意味で人間中心主義という言葉を定義して使っているので、それを否定されても困ってしまう。
もう一度『最前線』第四章をよく読み直してほしい。この章の前半部で論じているのは、ヒューマニズムが建前として万人の権利と平等を唱えながらも、実際には規範的な人間像を想定することでその像に収まらない人々を人間以外の生命もろとも劣位に置いてきた、という問題である。それはヒューマニストに見向きもされてこなかった人々や、見向きはされても暗黙のうちに異質な存在とみなされ恩着せがましい同情を浴びせられてきた人々が知っている通りだろう。「人間」はみな平等であると唱えたところで、いうところの「人間」の概念自体がホモ・サピエンスの中のごく限られた小集団をモデルとして構築されているようでは排除が生じざるを得ない。であるから例えばアガンベンなどは「人権や人間の価値を語る以前に、『人間』というカテゴリーの構築過程、ひいては人間と動物の分断論理を問う必要があると論じる」(p.186)。デリダによる「人間の名」と「動物の問い」の議論もほぼ同じ趣旨と考えてよい。
『最前線』でも参照している著書の中で、マシュー・カラーコはこう概括する。「支配的な倫理、共同体、さらには人間性そのものの概念も、ほぼ一度たりとて生物学的な種の線にしたがっていたことはない。そして最もリベラルで進歩的なヒューマニズムですら、その関心の射程から膨大な人間集団を堂々と排除してきた」(Calarco, Thinking Through Animals, p.26)。というわけで、カラーコは西洋文明の支配的思想を指す概念として、「種」による序列化を意味する「種差別」ではなく、代わりに規範的人間モデルを頂点とする序列思想という意味での「人間中心主義」を用いる(ibid., pp.25-7)。その考え方に則ると、「生物種としてのホモ・サピエンスを優位に置く思想」は「種差別」ということになるが、そもそもそれは現実を正しく反映できていない概念だった、というのがカラーコの主張であり、本章前半で論じたことの趣旨でもある。
さて、ヒューマニズムの問題を再確認したところで、周縁化された人々がその主体モデルに同化することを「余儀なくされている」という点を考えてみたい。伊勢田さんは「余儀なくされている」という表現について、「本人にとっても不本意なことを強制されるというニュアンスがつくが、それは多くの人にとって余計なお世話ではないだろうか」と問う。つまり、「『健常者中心的かつ肉食男根ロゴス中心的な人間像』への『同化』とここで呼ばれているものは、実質的には自由や自律を求める運動」なのだから、「自分自身の気持ちとして自由や自律を求める」人々にとっては「こうした分析は余計なお世話ということになるだろう」と。本当にそうだろうか。
まず、健常者中心的かつ肉食男根ロゴス中心的な人間像への同化を「自由や自律を求める運動」と要約するのが問題含みなので、やや語弊はあるが簡潔な表現に言い換えれば、ここでいう「同化」とはマイノリティがマジョリティに同化することとほぼ同義である。ヒューマニズムが想定する人間像は、マジョリティの型に沿って構築され、マジョリティのごとく自律的・自立的であること、理性的であること、肉食であることなどが、暗黙の条件となっている。人間として対等に扱われることを求めるマイノリティは常にこの規範に合わせるよう努力を強いられる。「社会の負担」とみなされ続けてきた障害当事者は「健常者のごとく」自律的・自立的であろうと努め、感情的・非論理的とみなされ続けてきた女性は「男性のごとく」冷静かつ理性的であろうと努め、過激で奇妙な異端者とみなされ続けてきた菜食者はひたすら肉食者に合わせて生きようと努めなければならない。それがマイノリティ自身の望みだろうか。なるほど伝統的なヒューマニズムの人間像に近づこうと積極的に努力するマイノリティはいるが、それはそうしなければこの社会で自分たちが抑圧される一方だからである。同化を「余儀なくされている」とはそのような状況をいう。そしてそうした状況への問題意識が近年になってようやく芽生えてきたからこそ、画一的な主体モデルをしりぞける多様性包摂の議論が現れてきたのではないか。マイノリティの権利運動が「自律」や「自立」を無批判に尊ぶ従来のヒューマニズム的価値観に異を唱え、人間存在の根幹をなす依存性の再発見と再評価などを行ない始めたのも同様の文脈に位置づけられる。そこで差異の倫理、すなわち「存在者たち各々の独自性を独自なるままに認められる枠組み、共通性や連続性とともに差異と複雑性を顧みられる枠組み」(p.207)が求められる。
差異の倫理をめぐる争点
他者の数、出会いの数だけ倫理があるという差異の倫理枠組みに対し、伊勢田さんはこう指摘する。
線引きをしないとなれば、当然「植物はどうするの」という問いに答える必要が発生する(通常の動物倫理がこの問いを無視できるのは「有感主義」という形で線を引くからである)。しかし、「他者の数、出会いの数だけ倫理がある」と倫理の多様性を持ち出してこの問いを回避しようとすると、今度は「じゃあこの人間とこの豚の扱いが異なってくるのも当然だと言ってよいわけだな」という反応が返ってくるだろう。
まず、「通常の動物倫理がこの問い[植物の扱いをめぐる問い]を無視できるのは『有感主義』という形で線を引くからである」という点については、p.215で私自身が説明しているので、わざわざ「マンスプレイニング」をしてもらわなくてよい。
重要なのは後半部、倫理の多様性を持ち出すと種差別が正当化されるのではないか、という点で、これは先に保留していた功利主義の問題――結果の違いによって功利主義は差別的扱いを正当化しうる、という問題――とも関わる。これについては『現代思想』の対談でも述べた通り、平等な配慮と平等な扱いは違うということを大前提として踏まえておく必要がある。ただし、功利主義は平等な配慮を行なったうえでなお、結果次第ではいかなる加害行為も容認しうる(少なくとも理論的には)。差異の倫理はこれと違い、個の開花を促すという方向性のもとで、その場その場の各存在に適した行動を求める(それとヌスバウムらの潜在能力アプローチがどう違うかはp.214で説明した)。よってそれは、図らずも有害な結果を招いてしまうことは防ぎきれないにせよ、開花をさまたげる危害行為に対し明確な禁止を設けることにはなるだろう。各個に応じて別様の扱いをすることは、差別をすることとイコールではない。
なお、開花を促す方向性に関し、伊勢田さんは「直前のマコーマックからの引用が根拠となっているのだろうか」と問うが、「だろうか」も何も、私はマコーマックの言葉を引用した直後に「言い換えれば」と書いている。ただし、マコーマックの理論については私自身も咀嚼不足のところがあると感じているため、ひとまずその著Posthuman Ethicsを紹介するにとどめ、解説は別の機会に譲りたい。
科学的管理法について
動物の殺害に反対する声を「感情論」と切り捨て、殺害を伴う事業を「科学的」という言葉で正当化している事例は、野生動物管理、特に外来種「駆除」を論じる文脈でいくらでも散見されるように思う。「レッテル貼り」や「決めつけ」という点では、殺すなという主張に付される「感情論」のレッテルや、アニマルライツに対する「過激派」というレッテルのほうが遥かに根強いだろう。そしてそのようなレッテルのもとに自然科学コミュニティが一貫してアニマルライツに無理解な侮蔑を向けてきた歴史があるにもかかわらず、「科学者にまじめに相手にしてほしくないのだろうか」と、まるで相手にされないのはこちらのせいであるかのごとく語るのはアンフェアだと感じる。過去の著作を読んでも感じたが、伊勢田さんは一貫して科学者の不誠実を脇に置きつつ、ただただアニマルライツ活動家の態度が悪いせいで建設的な議論ができないと仄めかす。これはもはや御用学者のスタンスに近い。
気候工学について
パウル・クルッツェンが気候工学/ジオエンジニアリングの意義を語りだして以降、かつては論外とされていたこの技術が多数の研究者に注目されだしたことを、まさか伊勢田さんはご存知ないのだろうか。誰でも知っている常識ではないだろうが、いやしくも科学哲学やSTSを専門領域とする研究者であれば知っていて当然と思われるので、あまりとぼけないでほしい。
性別本質主義
従来の倫理学説が男性視点で構築されている、というマーガレット・アーバン・ウォーカーに即した議論に関し、伊勢田さんは本質主義的な含みを持ちかねないと指摘する。しかしウォーカーや他のフェミニストが指摘しているのは、従来の倫理学説が性別二元論のもとで「男性的」とされてきた主体モデルに価値を置いていないか、という問題である。倫理的思考に求められるのは客観的・論理的・等々の態度であるが、それは伝統的に男性の特徴かつ女性に欠如した特徴とされてきた。その本質主義は第五章前半で概観したように、もとより父権的精神文化の中で構築されたものである。ウォーカーらはそうした性別本質主義の存在を踏まえたうえで、倫理学説が想定する理想の主体は伝統的に男性らしいと考えられてきた主体だろうと論じている。にもかかわらず、そう指摘する側が本質主義に囚われている、あるいは囚われかねないといわれるのは困惑するほかない。
ケアと女性性を結び付けるのが問題だというのは伊勢田さんの言う通りであり、ゆえにギリガンらの枠組みに対する評価はフェミニズム内部でも分かれている。しかし男性知識人らが構築してきた倫理学説においてケアの価値が見落とされてきたのは事実であり、その狭量な枠組みに異を唱えるところからケアの倫理の理論が発達したのも事実である。ケアが性別役割の一環として女性たちに不釣り合いに課されてきたことに関し、『最前線』の中で多くを語れなかったのは反省点とすべきであるが、これを女性の「本質」と位置づけるのが誤りであるという点はp.300で示唆している。
感情使用をめぐる争点
第五章、その中でも特にブライアン・ルークやアンドレ・コラードに言及した節では、感情蔑視の問題を詳しく論じているのだから、このくだりを読んで「ほらみろ、やっぱり動物擁護論は感情論じゃないか」という反応を起こしてしまう人は、何も読めていないといわざるを得ない。
「シンガーやレーガンは誰もが受け⼊れざるをえない前提から出発することで逃げ場を奪い、動物への配慮が必要だと多くの⼈を説得してきた。それにくらべて……感情を⼿がかりにしようとしても、『わたし別にそんなふうには感じないから』と逃げられてしまうのがおちということにならないだろうか」というのも、『最前線』のp.306に書いた想定反論そのものであり、直後にそれへの回答を示しているにもかかわらず、なぜ伝わらなかったのだろうか。分析哲学畑の人々によるフェミニズム理論への批判はおおよそ類型化しており想像がつきやすいため、本書ではそうした批判に可能なかぎり答えたつもりである。
もっとも、伊勢田さんはその回答に説得力を感じられなかったのかもしれない。「感情が十人十色なのは事実であっても、……共感のような基本的感情はほぼあらゆる人々が共有するものであり、無情さや冷酷さは社会的に構築されている部分が大きい」という論点に対し、伊勢田さんは「そんな非対称性があるようには思えない」と異を唱え、「苦しみへの共感も冷酷さもどちらも生得的な面と社会的環境によって醸成される面の両面をもつのではないか」と指摘する。後半部分についてはおそらくそうだろうと思う。そもそも私は「共感は人間が本来持っているもので、無情さや冷酷さは社会的に構築された人工的なものだ」といった素朴な議論をしていない。伊勢田さんの引用では「共感のような基本的感情はほぼあらゆる人々が共有する」の「ほぼ」が抜けているが、この有無は非常に大きな含意の違いを生む。無情さや冷酷さについても、私の文では、社会的に構築されている部分が「大きい」と述べていることに留意されたい。いずれにせよ、諸々の感情が生得的側面と社会的側面の双方を持つと考えたところで、「社会正義は感情の無力さを自明視するのではなく、感情を無力化するシステムの剔抉に努めなければならない」という結論の有効性は失われないと考える。
動物倫理学の創始者らに対する批判の一環で「感情否定は暴力の元凶である」と述べた部分に対し、伊勢田さんはシンガーやレーガンが人々に憐れみや思いやりを捨て去れとは述べていないと示唆したうえで、「言っていないことに反論するのはわら人形論法」ではないかと指摘する。が、実際のところシンガーやレーガンは感情の使用をよしとせず、自分が感情論者でないことを著書の中で強調しているのだから、「動物倫理学の創始者らは感情論から距離を置こうと腐心することで、……抑圧者の思想を肯定してしまったことになる」とみるのはわら人形論法ではないと判断する。
実験的生命科学と脱搾取
ドノバンのくだりに対する批判で、伊勢田さんは何重にも話をずらしている。文脈から切り離された引用なので分かりにくいが、ここは動物を理解するための方法論として観察に基礎を置く科学研究の必要性を訴えている箇所である。にもかかわらず、伊勢田さんはそれを科学研究全体に関する議論のように読み替え、「これは……観察研究以外のすべての生命科学研究を廃止せよという主張なのだろうか」と極端な解釈をする。そしてこの誤った前提のもと、論点はさりげなくドノバンの文脈を離れ、脱搾取と実験的生命科学の対立へと移る。
一つずつ答えていくと、まず、伊勢田さんが実験的生命科学の恩恵として挙げる「医学・農学等によって達成されてきた多くの進歩」などは動物理解とは関係ない。人間の便益向上をめざす動物実験はドノバンも他の動物擁護論者も批判するが、それはここでの論点ではない。
次に、動物理解の科学といってもここでは動物の感情や意思疎通を理解するための科学が争点となっている。そのための方法論として、侵襲的実験よりも自由な状態にある動物の観察研究が遥かに有効であることは異論の余地がないと思われる。
本文の趣旨からは外れるが、脱搾取派の立場についても述べておくと、人間の便益向上を目的とする動物実験はもちろん全否定されるだろう。ただしそれは実験的生命科学の全否定ではなく、死と苦しみを生む実験への反対である。インビトロ試験やコンピュータ・シミュレーションなど、加害を伴わない実験であれば動物擁護の立場から反対する理由はない(もっとも先述した通り、そこに投資される資源と血税に見合うだけの成果が見込めるのでなければ世間的な批判は免れないだろうが)。他方、動物の便益向上を目的とする実験に関しては、実験を受ける当の動物にとって害を上回る便益があれば許容されうるとも考えられる(cf. Donovan and Adams eds., The Feminist Care Tradition in Animal Ethics, p.4)。私も目下この立場に異論はない。
最後に、脱搾取の考えは上述の通り「実験的生命科学そのものを不可能にするような思想」ではないが、加害を伴う実験は否定する。本書では動物倫理学の理論解説を通し、その思想のさまざまな根拠を紹介してきた。しかるにこの期におよんで「なぜそうまでして脱搾取しなくてはいけないのか」という疑問が浮かぶようでは、もう一度初めから本書を読み直してくれとお願いするほかない。
初めに述べたように、伊勢田さんの認識は動物業者や動物消費者に寄った多数派バイアスに影響されている感があり、それによって文章の捉え方にもさまざまな歪みや偏りが生じているように思う。随所で話がずれるのもそのせいではないかと感じられた。もっとも、伊勢田さんはわざとそうした書き方をしているとも考えられる。つまり、実のところ私が個々の問題に対しどのような答を示すかはおおよそ承知のうえで、しかし動物利用を擁護する一般の業者や消費者が『最前線』を読めばこういうことを考えるだろうというところを、かれらに代わって文章化しているのがこのたびの書評なのかもしれない。よってそれに応じることは、多数派を構成する人々の素朴な疑問に答える効果もあると思われる。伊勢田さんの真意がどこにあるにせよ、このたびの論争は動物擁護論の理解に資するだろう。その意味で、対話の機会をつくってくださったことには改めて感謝申し上げる。ただそれはそれとして、やはり実践家と倫理学者の切り分けは、倫理学研究の質と内容に好ましからぬ影響をおよぼすはずなので、伊勢田さんのみならず他の倫理学者にも考え直してほしいところだということを述べておきたい。
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