伊勢田哲治氏に答える➁


<①はこちら>


再び、sentienceとは何か

動物倫理学における悩みの一つが、sentienceをいかに訳すかという問題である。他人のせいにするのはよくないと分かっているが、ここで腹を割り、なぜ定訳である「有感性」を私がしりぞけたかを明かすと、この言葉はほかでもない伊勢田さんの本において、「でっちあげ」られた訳語だと書かれていたからである(『動物からの倫理学入門』p.40)。そう評価されているものをそのまま使うのは翻訳家としてためらわれたため、英英・英和・国語・漢和・類語辞典のたぐいを参照し、ああでもないこうでもないと訳語を検討した末にひとまず「情感」という暫定訳に至った。とはいえ、これが適訳でないという点で伊勢田さんに異論はない。

かつても述べたように、もう一つの定訳(らしきもの)である「感覚」はsensationやsenseやfeelingと混同するので避けたほうがよいと思われる。『最前線』にも書いた通り、sentienceはもともと感覚で得た情報を意識的・主観的に経験する自覚能力を意味する(p.77)。というわけで、専門用語の訳語変更は望ましくないが、以後の訳書と著書では、この本義を反映し、「情感」ではなく「感覚意識」という語を用いたいと考えている。これが落としどころとなることを願いたい。


功利主義をめぐる争点

功利主義が加害者の満足を勘定に含めるのは「道徳理論として不穏」だと述べたが、伊勢田さんはこれが「どういう判断基準なのだろうか」ととぼけ、驚くことに「著者にしかわからない判断基準で話がすすんでいるようにも見えてしまう」と指摘する。繰り返すと、行為の善悪を判断するに際し、加害者の満足を考慮するのが不穏だというのは、常識感覚ではなく、「著者[私]にしかわからない判断基準」なのだそうである。

……もちろん、伊勢田さんはアンチフェミニストよろしく、本当は分かっていることを分からないと言って私を困らせたいのではなく、あくまで分析哲学の視点から、その「分かっていること」ないし「常識感覚」の中身を具体的に言語化せよと要求しているのだろう(それにしても「著者にしかわからない判断基準」とは驚くべき言葉だが)。

加害者の満足を勘定に含める理論は善悪の絶対基準を設けられなくなる。その考え方のもとでは、レイプやヘイトクライムや快楽殺人など、私たちが強い道徳的直観によって悪いことだと即断する行為ですら、被害者やその関係者の不幸・不利益とともに、加害者の満足を勘案して個別に善悪を判断しようという話になる。その功利計算は事の性質上、結果次第であらゆる加害行為に対し「善」と判断されうる余地を与えるだろう。加えてそれは被害者に対し「あなたの苦しみも分かるが、その苦しみで満足を得ている人たちの気持ちも考えなければ私のほうからは何とも言えない」と言い放つようなもので、つまるところ不幸・不利益を被っていない加害者にのみやさしく、被害者には酷な態度でしかない。「不穏」とはひとまず、そのようなことを指すと考えてよい。言語化すると複雑なようだが、大抵の読者は「加害者の満足を勘定に含めることの不穏さ」といえば、おおよそ以上のような意味に受け取ってくれるものと思う。

次に、功利主義は種差別を正当化しうるという議論に対し、伊勢田さんは「別扱いがすべて種差別なのではなく、倫理的に正当化できないような別扱いが種差別になるのである」と反論する。もちろんその通りであるが、問題なのは功利主義が「倫理的に正当化できないような別扱い」を正当化しうるという点である(「規範理論たる功利主義のもとで正当化される行為ならば、それはその時点で《倫理的に》正当化されているといえるのではないか」という悪ふざけはさすがに控えてほしい)。伊勢田さんが引用した箇所の直前で私はこう述べている。

例えば少数の動物を殺して無数の人々を救う動物実験は、それに胸を痛める人々の精神的な不利益を加味しても、全体として最大の幸福をもたらす可能性がある。しかし少数の人間を殺して無数の人々を救える人体実験となると、それに伴う社会の不安と恐怖が遥かに増すと考えられるので、同じ量の幸福はもたらされないかもしれない。同じことは動物園に珍しい動物を展示した時の結果と珍しい人間集団を展示した時の結果にもいえる。[p.84]

これ以上の説明が必要だろうか。なお、「差異の倫理」にも似たようなことが言えてしまうのではないかという点については後述する。

最後に、功利計算の結果が各論者の恣意性に左右されるせいで一致しないという点については、「定番の答え」として、「功利主義は少なくとも合意に至る道筋を示しているという意味でまだ義務論系の理論よりましだ」という見解が示されている。しかし、「合意に至る道筋を示している」というのは本当だろうか。少なくともピーター・シンガーやレイモンド・フライは、個々の倫理的判断を下すに際し、功利計算のプロセスを一つも示していない。それとも伊勢田さんがここで述べているのは、「功利主義は最善の行為を決定する計算原理ないし計算方法を明らかにしている」ということだろうか。しかしいずれにせよ、計算原理や計算方法ではなく具体的な計算プロセスを示さないことには、「合意に至る道筋を示している」とまではいえないように思う。


権利論とレーガンをめぐる争点

「動物の権利論」はトム・レーガンの登場以降、彼の理論枠組みやそれを原型として形づくられた思想的立場を指すという点に関し、伊勢田さんは運動団体の実態がそうなっていないのではないかと疑問を呈する。確かに「動物の権利」を掲げる(主として老舗の)団体がレーガンではなくシンガーを思想的なよりどころとしている実態は国内外を問わずみられる。が、今ではシンガーを動物の権利論者とみるのは誤りであるという認識が学界のみならず市井でも広がりつつあり、上のような傾向は批判の的となっている。

さて、このくだり以降、伊勢田さんは私が無手勝流の雑な権利論を展開しているかのように話を進めるが、待ってくれと言いたい。助力の義務にしても予防原則にしても滑りやすい坂道にしても、それらは全て私の理論ではなくレーガンのそれである。先人らの思想解説と私自身の主張は、読者が混同しないよう、本書の中ではっきり分けている。ましてここで取り上げているレーガンの主著『動物の権利擁護論』(Regan, 1984)を何度も読み込んでいるであろう伊勢田さんが、問題の記述を私の主張と取り違えるはずがない。にもかかわらず「ここで井上氏が使っているのは」「井上氏が想像したことが根拠になっていて」「井上氏のような考え方もありうる」などと読者を欺く書き方をしているのは、中々お人が良くないと感じる。助力義務が「倫理学説の基本」だという主張は該当箇所のレファレンスでも言及したRegan(1984)のp.249、予防原則と滑りやすい坂道については同書pp.319-20ならびにpp.416-7注30を参照されたい。私がレーガンに代わって厳密な説明をするとなると、理想的な道徳判断の条件を検討する同書第4章あたりから詳しく振り返る必要がありそうなので、ここでは省略する。

レーガンの解説に対する伊勢田さんの批判で、最も重要と思われるのは救命ボートの事例をめぐる解釈である。4名しか乗れない救命ボートに4人の人間と1匹の犬が乗り合わせたら誰を海に突き落とすべきか、という問いを、私は悪意の表れでしかないと述べた(これは間違いなく私の主張である)が、伊勢田さんはその解釈が「明確に議論の文脈を見誤っている」と述べ、こうした思考実験は倫理理論の普遍化可能性テストとして用意されたものだという。もちろん、伊勢田さんがいうような目的のもと、倫理学の中で同様の思考実験が行なわれてきたことは私も承知している。が、レーガンの著書を読むと、救命ボートの事例は「動物の権利を認めると不条理な帰結に至る」と主張したがる者たちによって、「文章よりも討論の中で」(つまり非公式の場で)持ち出される反論の一つとして挙げられていることが分かる(Regan, 1984, pp.284-6)。実際、救命ボートや無人島や火事の家など、倫理学の思考実験を思わせる問題を引っ張り出して動物の権利の「矛盾」を突こうとする者、あるいは現実の動物たちの扱いをめぐる議論から話を逸らそうとする者は後を絶たず、レーガンの記述はそうした論客を意識したものとなっている。したがって原典に即すかぎり、「議論の文脈を見誤っている」のは伊勢田さんではないかと思われる。なお、こうした極端な状況設定をした思考実験の是非については、先ごろ訳し終えた悪名高い動物倫理学者の最新文献(年内刊行予定)の解題にて検討したので、そちらに譲ることとしたい。


新福祉主義と廃絶主義

新福祉主義の政策は「今いる動物たち」の応急処置にならない、という議論に伊勢田さんは疑義を唱え、「この20年あまりでEUを中心に……福祉改革の多くが制度化されてきている」と指摘する。福祉改革が制度化されつつあるのはその通りだが、「今いる動物たち」の状況改善を図っていたキャンペーンがよしんば数十年後に多少の実を結んだとしても、その時には当の「今いる動物たち」は何世代も後の子孫へと代替わりしている。キャンペーンが始まった時に「今いる動物たち」と呼ばれていた者たちは、何の応急処置にも浴せなかったのである。もちろん新福祉主義以外の戦略に則ろうと、制度的暴力機構のもとに置かれた「今いる動物たち」に応急処置を施すなど叶わないだろうが、いずれにせよ新福祉主義者が福祉改革を進める意義として「今いる動物たち」の応急処置を挙げるのは間違っている。加えて伊勢田さんが引用した箇所の直後のくだりも読み返されたい。フランシオンはこう論じている。

むしろ新福祉主義は「今いる動物たち」の権利をないがしろにする。それは将来の動物たちを解放する前段階として、「今いる動物たち」の「人道的」な搾取を実現しようとする試みである。段階的戦略という名のもとに、「今いる動物たち」の基本権擁護は初めから放棄されている。代わりにこの動物たちは、理想の未来に至るための「踏み台」として、広い檻に甘んじろと言われているに等しい。「現在の動物たちが道徳的権利を持つと信じるのであれば、今は動物の権利を妥協し、より『人道的』とされる実験を促す法改正を支持・推進するなどして、それらの改正がいつか分からない将来、他の動物たちに権利を与えるだろうと期待するのは間違っている」。

加えて、この20年あまりで制度化された福祉改革も、監視が行き届かないなどの理由で機能していないとの指摘があり、数多くの調査がその実態を明らかにしてきた結果、今日では動物福祉を推進していたPETAやマーシー・フォー・アニマルズなどの団体ですら、「人道的」な畜産物はないというメッセージを強く打ち出しているほどである。なお、日本における動物福祉政策が実態を伴っていないことについては拙著『動物たちの収容所群島』で論じた。

なお、少しあとで伊勢田さんは、啓蒙による意識改革が一番だというフランシオンの所見に対し、私がどう考えているのかを問う。また、「実際に政治にはたらきかけて……規制強化を実現してきた新福祉主義者からすれば、啓蒙と意識改革の方がまだましだと言うのはとうてい承服できないところだろうが、井上氏はその点についてもフランシオン側に賛同するのだろうか」とも問うている。上でも述べたように(かつ『最前線』でより詳しく吟味したように)、新福祉主義が多くの欠陥を抱えるという点についてはおおよそフランシオンの言っていることが的を射ているように思われるが、一方、私も現状を変えるために啓蒙だけで事足りると考えるのは無垢すぎるように感じる。ただ、本文でも述べたように、フランシオンは有効な制度的変革を進めるには充分数のビーガンがいなければならないと考えており(ビーガン人口が少なければ、例えば企業にビーガン事業への転向を求めても、少数の声または少数の需要として切り捨てられてしまう)、当面はビーガン人口を増やすために啓蒙を最優先する必要があると論じている。「人々が脱搾取を実践し、動物の権利が広く支持される社会がつくられれば、動物搾取の廃絶へ向けた法改正も効率的に進められるとみてよい。すなわち、『法律によって動物に対する人々の道徳観が変わるのではない。逆である』。社会の変革を企てる者は、先に人々の意識変革を促さねばならない」(p.114)。もっとも、そういう割にフランシオンが啓蒙以上の有効な活動についてほとんど論じていないことは批判されてよいだろう。『雷なき雨』にはさまざまな活動の構想が挙げられているが、フランシオンはそのほとんどを放棄してしまった。

なお、フランシオンは法律についての哲学的分析だけでなく道徳規範の研究も行なっているので、法哲学者かつ道徳哲学者であると考える。より正確には法学者かつ法哲学者かつ道徳哲学者という分類になるのではないか。


個人と構造

先の話に関連する問題として、第三章への批判でいわれていること、すなわち「政治経済体制そのものの暴力性に切り込まず、もっぱら個々人の生活刷新や倫理的判断に種差別克服の期待を寄せるにとどまってしまう」のはフランシオンも同様ではないか、という点にほぼ異論はない。よって同じ章の別の箇所では彼の発言も問題にしている(p.173)。もっとも、フランシオンは大学の動物実験を廃止する活動に携わってきたのに加え、初期の著作で動物福祉法を中心に法制度の問題を扱ってきたので、社会構造への視点が全くないとも思われず、ゆえに伊勢田さんが引用している箇所では微妙な文脈の違いに則り彼の名を省いた(のだったと思うが、何を考えてこのような書き方にしたのか、正確なところを失念してしまった)。

次に、シンガーやレーガンの著作が個人の行動変革を求めるに終始しているという点に関し、「それは倫理学が……『われわれは何をなすべきか』を一人称的に問う学問であるという分野そのものの性格に由来する」のではないか、と伊勢田さんは回答されている。実は私もこの箇所でそれを書こうと思った。そしておそらくその通りなのだろうが、まさにそれゆえに、道徳哲学ないし狭義の倫理学は、動物利用などの社会問題を前に、構造を見据えた提言を示す点で大きな限界を抱えているかもしれないということが、学科内部においても再考し克服すべき課題として認知されてよいのではないかと考えた。


「エコテロリスト」の非合法活動について

対人暴力を伴わない直接行動を真正のテロリズムである9・11や地下鉄サリン事件と同じカテゴリーの犯罪に分類するのがナンセンスだという主張には何の問題も感じない。さらにいえば、畜産・屠殺産業をホロコーストと称することが非難される一方、たかだか施設や店舗を破壊する程度の軽犯罪がテロリズムと称されるのはナンセンスの上塗りだと考える。個々の直接行動が動物解放の有効な戦略であるかは検討が必要であり、時にそれは逆効果しか生まないこともあるだろうが、だからといって愚かな直接行動がすなわちテロリズムだという結論にはならない。本文で詳述しているように、批判的動物研究は発足当初から直接行動を擁護し、「テロリズム」という語が社会正義の抑え込みを図る者たちによって恣意的に用いられることを批判してきた。学者であれば「そういう言い方」を批判するのではなく、かくも平明な「そういう言い方」が通じない人々の頑固なバイアスを問題にしてほしい。


<③へ続く>

ペンと非暴力

翻訳家・井上太一のホームページ

0コメント

  • 1000 / 1000