伊勢田哲治氏に答える①

伊勢田哲治さんが拙著『動物倫理の最前線』(以下、『最前線』)の書評を発表された。長大な批判を寄せてくださったことにまずはお礼申し上げたい。仔細にわたる批判を書こうと思えば、問題とする文献の読み込みや論点の整理に相応の時間と労力を割かねばならない。伊勢田さんがこのたびの書評をまとめられたことは、拙著にそれだけのリソースを割く価値があると考えてくださった証だと理解している。

社会正義に対する批判は、しばしばそれ自体が悪しき振る舞いとみなされ、あまつさえ当該の正義が擁護する被抑圧集団への差別とさえ即断されることがあるが、これは健全な思考とは思われない。社会正義は世の常識に異を唱える以上、反発や批判が巻き起こるのは当然であり、それに対して説得力のある回答を示せることが当の正義の妥当性を担保する。加えて、いかなる正義も人間が担うものである以上、過ちを犯し、ことによると全くの倒錯や邪道にさえ陥る可能性がある以上、その主張に異を差し挟む人々と対峙し続けることは重要なプロセスに違いない。その意味で、動物倫理が議論に開かれた状態を保ちつつ発展を遂げてきたことは幸いとすべきである。

さて、伊勢田さんの書評に戻ると、寄せてくださった指摘は本書を読んだ分析哲学系の倫理学者が抱くであろう所感や、動物利用の継続を支持する業者ならびに一般層の認識を見事に代弁する内容となっているため、これにいかなる応答ができるかで『最前線』の真価が試されるといっても過言ではないように思われる。指摘は多岐にわたっており、どのような答え方がよいか少々迷ったが、共通する論点をまとめつつ、おおよそ順序どおりにみていくこととしたい(以下、『最前線』からの引用では漢数字をアラビア数字に変換)。


倫理と実践

書評の冒頭にて、伊勢田さんは動物をめぐる思想について論じる際の視点やスタンスの違いについて言及している。よい機会なので、各論に先立ち、この点について思うところを述べておきたい。伊勢田さんはここで「実践家」と「われわれ倫理学者」を切り分けているが、そうだとすると、日本の平均的な倫理学者は実践から距離を置いているのだろうか。海外の動物倫理学者はほとんどがビーガンまたはベジタリアンで、動物解放運動に直接参与し、時にはその指導的役割さえ務めている実践家であると認識しているが、日本の倫理学者がその水準に至っていないとすれば遺憾なことである。一般に、倫理の実践とは差別的・抑圧的な現状に逆らう努力を指し、動物に関するそれは第一に種差別と動物搾取からの脱却を指す。この場合、実践を行なわないということは種差別と動物搾取に加担し続けることを意味する。動物に対する倫理的スタンスは、差別から手を引く実践家か、差別を後押しする現状肯定派か、この二つ以外にありえない。実践家ならぬ倫理学者とは、非倫理的な倫理学者と同義であり、そうした人々が動物倫理学の解説者を務めるのは、ミソジニストがフェミニズムの解説者を務めるに等しい。理論的にはそれによってその解説が誤りということにはならないが、差別の加担者がその差別に反対する思想を正しく理解できるのか――表面的に理解するだけでなく、その思想を支持する人々の視点と認識に立って理解できるのか――は問う必要があるだろう。

多数派の見方では、「実践家」の著作物というとそれだけで特殊なバイアスまたは傾向性が含まれているように思われるかもしれない。実際、私は本書『最前線』を批判的動物研究の概説書として著し、この分野の教科書としての使用にも耐えるよう解説には正確を期したが、それにもかかわらず、おそらくは動物擁護の立場を明確に表明するビーガンが著者であるとの理由から、本書は私なりのオリジナルな動物論を語った作品と曲解されることがあった。解説とは別に私自身の考えを述べた部分もあるとはいえ、全体がそうであるように受け止められたのは誠に残念かつ心外である。ビーガンの書いたものは常にこうした先入観のもと、単なる偏った意見の一つとみなされてしまうのかと思わずにはいられない。

かたや実践家に上のような先入観を抱く人々は、実践から距離を置く倫理学者の見解を「中立的」とみるだろう。なぜならそうした倫理学者が属する多数派のバイアスや傾向性は、多数派を抜けた人々以外には認知されないからである。動物倫理の文脈でいえば、多数派を構成する種差別者や肉食主義者のバイアスは、その立場を脱したビーガンにしか認知されない。先述したように、現実には動物倫理において「中立」はありえず、実践家でない者はすなわち種差別者という特異な立場に位置することを免れないが、その立場は現状、多数派の常識に則るがゆえに人々の意識にのぼらず、見かけ上の「中立性」を帯びることとなる。が、実践から距離を置く人々が実践家の見解を「偏っている」と捉えるように、日々実践に努める者からすると、実践家ならぬ人々の見解も「中立的」でないどころか、ほぼ例外なく現状肯定的(≒差別肯定的)な強いバイアスに囚われている。ビーガンの私からみて、伊勢田さんのこのたびのコメントにも同じようなバイアスを感じたので、以下、そのあたりの問題にも光を当てられたらと思う。


主観的形容は絶対悪か

『最前線』にかぎらず、私は動物利用の実態を記述する際に原則として事実のみを列挙し、いたずらに「残忍」などの主観的形容を行なうことは差し控える方針をとっている。主観が入る記述は、相応の事実を示し、一般読者が充分その形容に納得できるだろうという場面で限定的に用いるにすぎない。が、伊勢田さん(あるいは伊勢田さんが代弁する自然科学コミュニティの人々)は、その至極かぎられた主観的形容すらも許してはくれないようである。

第一章では「動物に関わる人々を冷酷な拷問者のように形容する箇所」が「多く見られる」と伊勢田さんは言い、その例としてまず、「電気ショックはこの分野の動物実験者にとって最愛の友であるが、拷問手法はほかにもある。」(p.52)という一文を挙げる。しかし実際のところ、ここで紹介しているのは「餌のために仲間を苦しめるか、仲間のために餌を諦めるか、という二択」(ibid.)を動物に迫り、その共感や利他性を調べる実験なのだから、いうところの「仲間」を人為の苦しみにさらすことが大前提となっている。人為の苦しみにさらすことを簡略化して「拷問」と言い換えるのは自然な言語感覚ではないだろうか。そして共感実験の歴史を振り返ると、特に頻用されている拷問手法が電気ショックなので(隣り合うケージの一方にいる動物が餌を得るためのスイッチを押すと、他方の動物に電気ショックがおよぶ仕掛けなので)、電気ショックはこの分野の動物実験者にとって「最愛の友」であると記述した。誇張も印象操作もない。

続いて伊勢田さんは、「論文作成という利己的目標のためにその様子を嬉々として観察する実験者たちには、微塵の共感すらも見て取れない」(p.54)という記述に目を留め、「わたしがそうした研究者たちと接して受ける印象は、彼らは普通に共感性に富んだ人々だということである」と指摘する。なるほど昨今では悪人とされる人物であっても実は家族思いの一面があるなど複雑な人間性を有するといった言説が好まれるのは承知しているが、私はむしろ、そのような「普通に共感性に富んだ人々」が特定の集団に対しては容易にその共感を捨て去ってしまえることに問題意識が向けられるべきだと考える。もちろん研究者らは伊勢田さんに対しては善良な人々だろう。何しろ、伊勢田さんはかれらの実験材料ではないのだから。問わなければならないのは、かれらがマウスやラットに対してどのような人々か、という点である。ヒトラーもゲッベルスも、家族にとっては良き人であったかもしれないが、それは彼らがナチス政権下の被害者たちにとって悪魔であった事実を相殺しない。

異種移植を「猟奇的」技術と形容したことも伊勢田さんは見咎めているが、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』に描かれた世界にも等しい発想すら「猟奇的」といえないのであれば、一体この世の何が「猟奇的」なのだろうか。「猟奇的」と形容することが「新しい技術」の「否定」であるというのもよく分からない。私たちは科学者のいかなる発想や発明に対しても好意的な感想しか持ってはならず、批判的な感想はことごとく科学もしくは技術の「否定」と受け取られてしまうのだろうか。

なお、動物の監禁・拷問・殺害に従事する業者を「動物に関わる人々」と言い表し、異種移植を「新しい技術」と言い換える伊勢田さんは、行なわれていることの暴力性――その営為に伴う死と苦しみ――を字面から抹消し、動物たちの被害を矮小化していると感じる。それはバランスの取れた見方でも「中立」でもなく、明確に加害者の肩を持つ態度にほかならない。


知的探求はどこまで許されるべきか

共感実験の実施者らが、動物種や拷問手法を変えて延々と同様の実験を繰り返すさまを、私は「もはや人間社会の実益ともかけ離れた研究のための研究」と総括した(p.54)。これに対し、伊勢田さんは「学術的な研究はあくまで実益のために行われなくてはならないと考えているのだろうか。知識の探究そのものに価値があるとは考えないのだろうか」と疑問を呈する。

ここでも伊勢田さんは、行なわれていることの内容を度外視しつつ、多数派にとってもっともらしい一般論へと話をずらしている。実益を離れた知識の探究を全否定したいなどとは、もちろん私も思っていない。問題は、そのような無垢で純粋な知的探求のためにどれだけの犠牲と代償が許されるのか、である。その探究が何らの犠牲も伴わないのであれば言うことはない。しかしここで争点となっているのは、動物たちを電気ショックにかけ、拘束装置に閉じ込め、水に沈め、最後は皆殺しにする営為である。そうしたことが単なる知的好奇心を満足させるためだけに行なわれているとしたら、その意義を疑うのは平均的な倫理観を持つ人間として当然の反応であろうと思われる。本書では論じていないが、このほかにも例えば、太陽系の小惑星から小石を拾ってくるなどというプロジェクトのために膨大な金と資源とエネルギーを費やす営為に対しては、いかに知的探求のためといえども投じるものが大き過ぎるのではないか、という声が上がってよい。無垢で純粋な知的探求に至上の価値を置き、そのためにあらゆる資源や生命の浪費をも是とする価値観は、そろそろ見直されるべき時期に来ている。ちょうど大昔に読んだガルブレイスの対談本に面白い記述があったので引用しておきたい。

彼ら[科学者や技術者]は、知識の未開拓の領域を拡げる支出はすべてよいものであって、決して問題とさるべきではない[ママ]、という原則がほとんど普遍的に受け入れられるまでに何とかこぎつけました。どんな科学上の支出についても、それを正当化する理由を疑うことは、憤慨または恩きせがましい反応をよび起こします。私自身は、このような思索についてはとても慎重にしています。土星環にある小さな石の化学的・物理的・生物学的・審美的な正確な内容について、私は自分に好奇心が欠けていることを一、二度発見しました。そして、これに何億ドルも使いながら、ニューヨークの最悪の地区の再開発をしないでいいのだろうかと疑いました。しかし、ハーヴァードの教授クラブでこうした質問をもち出そうとは夢にも思いません。いまそれに言及するだけで、とても勇敢だと思います。[ジョン・K・ガルブレイス+ニコル・サリンジャー著/鈴木哲太郎訳『ガルブレイス ほとんどすべての人のための現代経済入門』p.252]

ここで言われる「支出」を「生命の犠牲」や「資源の浪費」に置き換えると、私の主張が伝わることかと思う。

動物実験の統計に関する指摘でも、「多く引用される実験ということは、おそらく……基礎研究よりの実験が多いのだと思われるが、単純に医薬品に応用されないのは当然」「対象となった研究の大半が基礎研究系かチンパンジーも感染する感染症や寄生虫についての研究で、人間の医療への応用に直結しないのは研究の性格上当然」といったことが述べられているが、そうだとすればそのような意義の疑わしい基礎研究で動物を拷問・殺害するのはなおさら不正としか言いようがなく、基礎研究はそもそも応用に直結しないものなのだと開き直られても当惑するほかない。

無論、本章ではまだ一般的な感覚に則り、無益な実験のために動物を苦しめ殺すことは不正だろうという観点を示しているが、では有益な実験のためであればその行為が許されるかというと、それはまた別問題であり、その点を扱うのが第二章以降で紹介する諸理論である。動物実験の節で述べたように、「現実には『有益な動物実験』など例外中の例外でしかない」が、「動物倫理では、百歩譲って動物実験が有益だとしたらどう考えるかを問う」(p.62)。


統計の不正利用?

「権威ある科学ジャーナルで600回以上引用された動物実験76件を分析したレビューによれば、医療への応用に結びついた実験はわずか8件しかなかった」(p.61)という記述に対し、伊勢田さんは同じ論文(Hackham and Redelmeiner, 2006)をもとに、「実験結果が再現されたものという意味では28件(37%)が再現された」と述べ、「井上氏の紹介のしかたは、あえて一番小さい数字だけを見せて印象操作をしているようにも見えてしまう」と結論する。

これは何の反論にもならない。「実験結果が再現された」ことと「医療への応用に結びついた」ことは違う。動物実験の再現性の低さはそれ自体大きな問題であるが、ここではそうした実験の多くが応用に結びつかないことを問題にしている。速読者が勘違いするので、論点のすり替えをしないでほしい。

チンパンジーの研究についても、「この時期には……人間向けの医薬品開発のためにチンパンジーを使うことはそもそもまれ」で、先に引用したごとく「医療への応用に直結しないのは研究の性格上当然」と開き直っているのみで、応用に直結しない実験の多さを問題にしている拙論への反駁にはなっていない。にもかかわらず、またも私が「印象操作を行っている」と示唆するのは、それこそただ私の信憑性を毀損するだけの印象操作にしか思えない。


動物園・水族館の責任

動物園が飼育下の動物たちを生息地に再導入できていないという議論に対し、伊勢田さんはそこで出典としているレポートが逆の趣旨を論じているのではないかと指摘する。いわく、「著者は前半ではオルカのケイコの事例などを挙げて、動物を自然に返せと安易に求める運動に対して、生息地への再導入は非常に難しいということを言っていて、後半では一旦は諦められてきた再導入が集団での導入などの新しいテクニックの導入によって可能になりつつあるという事例を紹介している。全体としては後半に力点があるといっていいだろう」。

これはお世辞にも適切な要約とは言いがたい。伊勢田さんの記述を素直に読むと、レポートの著者は業者寄りの立場から安易な動物解放の訴えを批判しつつ、動物園による再導入の取り組みを評価しているように思われる。が、実際の著者は大前提として再導入の困難を論じ、それを証明する最も嘆かわしい事例としてケイコのそれを挙げている。「動物を自然に返せと安易に求める運動」に反論しているのではなく、「ケイコの自由を要求する大規模な投書キャンペーン」によって1999年にケイコのリリースが試みられたが、「残念ながら」彼は野生界で生きていける状態ではなく、それは「幼くして捕らえられ、あまりに人との接触に慣れ過ぎていた」せいだと著者は論じる。水族館から水族館へと売却され続け、不適切環境によってひどく体調を悪化させたオルカの解放を求めた人々が、こともあろうにBBCアースの記者によって批判されるわけがない。批判の矛先は当然ながら動物園と水族館に向けられている。

後半では再導入の試みが紹介されているが、その取り組みが誰によって行なわれているかに注意されたい。伊勢田さんは主語を曖昧にすることで(故意に?)読者を誤導しているが、再導入を試みているのは動物園ではなく、動物や自然の保護を使命とする非政府や非営利の慈善団体である。レポート全体の趣旨としては、動物園やサーカスやペット所有者のもとに置かれていた動物たちの再導入は基本的に困難を極めるが、近年では民間組織の取り組みによって希望の光も見えてきつつある、といったことが述べられている。ただしその民間組織による再導入の取り組みもまだまだ前途多難であることが説かれている。公平な目を持つ読者であれば、「著者の意図した読み方」に大きく背いているのは伊勢田さんだと判断できるだろう。

次に、野生動物への餌やりについて、動物園や水族館の責任を問うのは「さすがに言いがかり」ではないかと伊勢田さんは言うが、今日の社会において、野生に分類される動物たちへの接し方は、大部分がこうした施設への訪問体験を通して形成されると考えるのが妥当に思われる。なるほど野良猫や野良犬に餌を与える習慣はあるが、ペット化されていない異質な野生動物にも同じように接してよいと思い込むまでには、いくつものステップが必要になるだろう。動物園や水族館を除いて、その有害なステップを提供する媒体が多くあるとは思えない。


対話を断っているのは誰か

伊勢田さんによれば、私は再三にわたって対話や議論の糸口を断ち切っているらしい。いわく、「動物に関わる人々」を「冷酷な拷問者のように」見てしまうと「洞察を深める手がかりが失われ」、無益な研究で動物を虐殺してはならないと言えば「議論を深めていく手がかりが失われ」、「実情にそぐわない的はずれな批判」と思われる数字を示せば「かえって対話の糸口を閉ざしてしまい」かねず、動物園や水族館の動物たちを生息地に再導入することは基本的に叶わないと書けば「動物園関係者が動物倫理に興味を持って本書を読んだとしたときに……せっかく存在しえたはずの対話の糸口を断つことに」なりうるのだという。

動物利用を支持・肯定・推進する人々は、それほどまでに脆弱なメンタルなのだろうか。罵倒や汚言が並んでいるわけでもないというのに、自分と違う意見や気に入らない意見を前にすると、筋道立った反論を示すのではなく、議論や読書の放棄を選んでしまうのだろうか。「ノーディベート」とはかれらの態度を表す言葉なのだろうか。だとしたら私は敵を過大評価していたようである。いかにこちらが対話や議論に開かれた姿勢でいても、相手の側が話したがらないというのであればどうにもできない。が、その責任までもこちらのせいにされるとしたら、電信柱が高いのも郵便ポストが赤いのもビーガンのせいと言われているようで、少々つらいものがある。

もっとも、実際には伊勢田さんのような気骨ある人がしっかり反論を寄せてくださっているのだから、対話や議論の糸口は少しも失われていないと考えてよいだろう。


<➁へ続く>

ペンと非暴力

翻訳家・井上太一のホームページ

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