正義の文脈で悪用される動物メタファーの問題

社会正義の文脈ではしばしば、人を動物に、あるいは人の境遇を動物のそれになぞらえる表現が使われる。第一のパターンは、何かしらの被害にあった人々やその支援者が口にする「私たちは動物じゃない」「人を動物のように扱う」などの用法である。第二のパターンは、正義の支持者が敵に向ける侮蔑表現、すなわち「動物」「害虫」「ケダモノ」「権力の犬」「肉屋を支持する豚」などの用法である。

差別意識に凝り固まった露悪的な人物だけでなく、抑圧と闘う左翼やリベラルやフェミニストも、動物のメタファーは特に問題ないものとして習慣的に用いる。動物擁護派からするとこれらの表現は言語道断なのだが、それ以外の人々にとっては何がそれほど言語道断なのか分からないかもしれない。多くの動物擁護派は、動物メタファーの使用が差別的な含みを持つものであり、社会正義の支持者がそれを用いるとしたら、いうところの正義に矛盾すると論じてきた。本稿ではその議論を整理し、動物メタファーの問題点を概括したい。上に挙げた第一の表現パターンと第二のそれは、共通する精神性に根ざす部分とともに相異なる部分もあるので、順に検証を進めることとする。


1.人間の「動物」扱いに抗議する

「私たちは動物じゃない」「人を動物のように扱う」などの表現は、人間を「動物同然」に扱うことへの抗議として用いられる。これは抑圧されてよい集団、取りこぼされてよい集団を暗に想定するという、社会正義において最もやってはならないとされる過ちを犯している。私たちは動物じゃない、人間だ、だからこんな扱いをされてはならない、という主張は、「動物であればひどい扱いをしてもよい」というメッセージを伝えずにはおかない。あの集団は抑圧されてよい、しかし私たちは違う、というわけである。社会正義の支持者であれば、「私たちは外国人じゃない、この国の人間なんだ」などという表現が論外なのは分かるだろう。ところが「私たち」と比べられ貶められる集団が「動物」になった途端、多くの正義論者はそこに問題を見出すことができなくなってしまう。

この議論に対し、「だって相手は動物でしょ?」と目を丸くする人々もいる。しかし「相手は動物だ」というだけでは何も言ったことにならない。人間と他の動物が生物学的に異なる存在なのは誰でも認めるが、倫理的に異なる存在――片方は抑圧されてはならず、もう片方は抑圧されてよい存在――だというのであれば、相応の論証を要する。目下、その論証に成功した者はいない(*1)。加えて、制度化された差別のもとでは、特定の人間集団が「動物」とみなされてきたことも忘れてはならない。人間は権利を持つ、動物は権利を持たない、と主張するのは簡単だが、歴史を振り返ればまさにその論理のもとに特定の人々が「動物」もしくは「動物的存在」に分類され、合法的に差別されてきた。反抑圧・反差別の枠組みから外される「動物」というカテゴリーは、容易に人権侵害の根拠へと変わりうる(*2)。

人間の「動物」扱いに抗議する人々は、現実に生きる動物たちの境遇も知らない。知っていればこのような表現を使うことはできない。動物たちの境遇は、ペットか野生動物か畜産利用される動物かなど、社会的位置づけによって千差万別であり、その全てを「動物」の一語にまとめるのはそれ自体が非常に乱暴であるが(*3)、例えば畜産利用される動物であれば、体の向きも変えられない檻への幽閉、麻酔なしの切断、繰り返される妊娠の強制、生産性が落ちた時点での廃棄と屠殺などをこうむる。人権の議論では人々がいかなる権利を持つべきかが争われるのに対し、動物の権利の議論では、そもそも人間以外の動物が何らかの権利を持つのかが争われている。「動物同然」の扱いに抗議するのであれば、それが現実にどのような境遇なのかを知り、本当に自分や特定の集団が動物たちと同様の扱いを受けているのか熟慮しなければならない。無論、そのうえで我々は今のような扱いを受けていてはならない、しかし動物たちは今のままの扱われ方でよい、と考えるのであれば話にならないが。


2.憎むべき相手を動物に譬える

敵視または軽蔑する人物を「動物」や「獣」に譬える表現は非常に古い歴史を持つ。「お前は動物か」「まるで獣」などの言葉に一度も触れたことのない人はいないだろう。また、権力に追従する者は「犬」に譬えられてきた。日本はアメリカの「ポチ」だといわれる。近年では気の利いた揶揄が好まれる醜悪な風潮のなか、「肉屋を支持する豚」という表現も広く見られるようになった(*4)。

なぜ人々は憎むべき相手を動物に譬えるのか。動物は伝統的に愚かさの象徴とされてきたからである。すなわちこうした罵倒語を用いる人々は、相手が愚かであること、つまり知性や理性を欠いていることに侮蔑を向けている。その意味で、この文脈における動物メタファーは能力差別や学歴差別の思想を反映する。意図していようといまいと、罵倒者は特定の相手を見下しつつ、知性や理性が一定の基準に満たないとされる人々全てを見下すことになる(その「一定の基準」自体が社会的特権者の恣意的な構築物にすぎないのだが)。しかも由々しきことに、罵倒者は知性なり理性なりを欠く者が「人間ではない」と語っている。非人間化は典型的な差別者の思考であり、現にさまざまな被差別集団が「動物的」とみなされてきた背景には、その人々の知性や理性を否定する疑似科学言説があった。女性差別しかり、黒人差別しかりである。右翼を批判する左翼であろうと、セクシストを批判するフェミニストであろうと、敵を動物に譬える者は差別者の立場に接近する。正義が批判すべきは、知性や理性が欠如した人間ではなく、知性や理性を悪用する人間なのだということを忘れてはならない。

次に、同程度に重要な点として、これらの罵倒語は動物たちへの隠しようもない侮蔑感情をあらわにしている。「犬」のような人物を見下し、「豚」のような人物を嗤ってよいというのなら、その者にとっては犬自体や豚自体も粗末に扱われてよい存在なのだろう。「たかがレトリックじゃないか、動物はそんなものを理解しないのだから、こういう表現を使ったところで傷つかないよ」という反論は考えられるが、それならば同じくレトリックで傷つかない人間も罵倒のアイテムとして利用してよいことになる。「お前は女か」は、女性がこの言葉を聞いて傷つくので問題であるが、「お前は認知症か」は、認知症患者がこの言葉を聞いても傷つかないので問題ない、というのだろうか。そうした形で特定の集団に対する蔑視を強化することは、それ自体が差別である。

最後に、罵倒語としての動物メタファーは、誤ったステレオタイプにもとづいている。動物の知的能力についてはさまざまな研究報告があり、もはや知性や理性なき存在としての動物理解は時代錯誤のそしりを免れない。犬が飼い主に「追従」するのは、従順な気質を選抜する育種と、不服従に対する飼い主の暴力的懲罰を背景としてのことであり、自由意思を行使できる者がみずからの浅ましい思惑で強者に付き従う行動とは異なる。豚は絶望的な拘束下にあっても仲間を思いやり、わが子を傷つける畜産農家に挑みかかり、屠殺を前に逃亡を企てる。「肉屋を支持する豚」は下劣なファンタジーの産物というよりない。「ガミガミうるさいフェミニスト」や「乱暴な外国人」などのステレオタイプをよしとしない人々が、動物に関しては陳腐なステレオタイプに囚われていることが珍しくない。当事者の実像をゆがめるそうした認識もまた、忌むべき差別に通じている(*5)。


結論

動物擁護派は遥か以前から動物メタファーの悪用を批判してきたが、左翼、リベラル、フェミニストの多くはいまだその声に耳を貸そうとしない。当人らは何気なくこれらの表現を使っているため、動物擁護派の指摘は「本題から外れた揚げ足取り」、それどころか正義を茶化すアンチの攻撃とすら受け取られる。ちょうど労働闘争の従事者などが性差別を指摘されても、それを本題と無関係な難癖として処理してきたのと同じことである。かくして、外野にとっては「つまらない言葉のあや」とも思える部分で、動物擁護派は人知れず他の正義運動に甚だしい幻滅を覚え、連帯の不可能性を思い知らされてきた。

差別を指摘されたら一歩立ち止まって考える、あるいは素直に認めて以後気をつける、ということを唱える人もいるが、管見のかぎり、動物メタファーの悪用を指摘されて実際に一歩立ち止まった人、素直に問題を認めた人はこれまでに一人もいない。何らかの正義運動で代表格を務める知的エリートの人物ですら、である。人々はそれほどまでに自分の落ち度を認めたがらない。しかしながら、悪しき動物メタファーは差別表現の一種に違いなく、それを用いる者の正義構想に深刻な排他性があることを物語る。それはやはり見直されなければならない。

無関係な文脈で「動物」を引き合いに出さずとも正義運動を進めることはできる。「あらゆる差別に反対する」という目標を真に達成したいと願うのであれば、社会正義の支持者は人間への関心だけに囚われる態度を脱し、動物にまつわるみずからの認識をも振り返る必要がある。無論、言葉の用法は本質的な問題の表れにすぎない。動物メタファーの悪用を根底で支えるのは種差別のイデオロギーであり、それは表象的次元だけでなく、物理的次元で動物たちの壮絶な搾取を引き起こしている。私たちの社会正義はこの世界最古の差別に対抗すべく、言葉の使い方から衣食住のあり方まで、生活の全てにおける加害性の克服をめざさなければならないだろう。




*1 この論証を試みるならば、最低でもトム・レーガン『動物の権利・人間の不正』(緑風出版、2022年)ならびにゲイリー・L・フランシオン『動物の権利入門』(緑風出版、2018年)を精読してからにしてほしい。素人が思いつく程度の議論はすでに何度も反駁されている。


*2 ジョルジョ・アガンベンの「人間学機械」に関する議論を顧みられたい。詳しい解説は拙著『動物倫理の最前線』(人文書院、2022年)の第四章を参照。


*3 ジャック・デリダはこのような動物たちの差異の抹消を批判している。『動物倫理の最前線』第四章を参照。


*4 「肉屋を支持する豚」という表現はクィア・マガジン『OVER』の制作者らによって積極的に広められてきたと認識している。読むに堪えないが、代表者のエッセイである宇田川しい(2022)「安倍と壺とブタと」も参照(2023年3月19日アクセス)。

*5 本段落の記述はサラット・コリング『抵抗する動物たち』(青土社、2023年)に多くを負う。


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