生田武志氏の反論に答える【後編】



<前編はこちら>



狩猟について

生田さんは加害者のほうだけを向いている。殺す側の「責任」や「覚悟」は、殺される動物たちにとっては何の関係もない。勝手にケガを負った間抜けな猟師が治療をしなかったら何だというのか。こうした仕草は、食べる動物に感謝を捧げることで罪悪感を軽くしようと試みる凡庸な肉食者の態度を想起させる。肉食を脱したビーガンからすればどちらも負けず劣らずのナンセンスである(ビーガンならば誰でもこの程度のことは考えるので、あえて「ビーガン」という主語を用いる)。銃や罠を用いる時点で猟師は充分に卑怯であり、千松信也の独りよがりなポリシーひとつで人間と動物の圧倒的な力の不均衡が消え去ることはない。このような「加害者の美学」に無垢な感銘を受けてしまうところに、憐れみや思いやりなき倫理観の限界が表れている(なお、伝統的に女性と結び付けられてきた憐れみや思いやりの感情を軽んじる一方、伝統的に男性と結び付けられてきた覚悟や責任の精神を重んじる点で、生田さんの思想は父権的価値観の強い影響を受けていると感じる)。

次に、生田さんは野生動物の個体数調整を論じているが、それと食用目的の狩猟を混同するのは不適切であるのに加え、殺戮による個体数調整が生態系管理の観点から妥当なのかも疑いの余地がある。鹿を殺せば「増え過ぎ」が解決される、というものではない。『動物の権利入門』の訳注でも述べたが、猟師が健康な動物を殺していくと、生息密度の減少によって相対的に動物の食料と行動可能域が増え、繁殖の成功率と子孫の生存率を高めるというリバウンド効果が生じる(*1)。土地ごとの野生動物の正確な生息数が分からない以上、どの程度の狩猟圧までがリバウンド効果を生み、どの程度の狩猟圧に達したら種の減少に繫がるのかは知りえない。「覚悟と責任」のある伝統的な猟師とやらが無鉄砲に鉄砲を放てば生態系の調和が保たれる、などと考えることはできないのである。であれば、不適切な人工地をなるべく健全な形に改め、分断された生息地を繫ぐ取り組みなども進め、餓死や病死も含む自然の均衡とサイクルを再現するという方策のほうが、生態系保全のあり方としては遥かに適切だろう。狩猟擁護者はことさらに鹿の餓死を重大視するが、それを言うなら鹿以外の野生動物も、都市に暮らす雀や鳩などの野鳥も、日々餓死に見舞われている。ならば私たちは山の小動物から都市の野鳥に至る万般の生きものたちに対しても、餓死を防ぐための慈悲的狩猟を実施すべきなのだろうか。

そもそも餓死を防ぐために人の手で動物を殺してやるという考え方が倒錯しているのは言うまでもない。もしも人口爆発の弊害を解決するには世界の人々を人道的に殺戮するのがよい、と論じるのであれば、鹿の増え過ぎを解決するために鹿を殺そうと主張するのも筋が通る。人は増え過ぎても殺すべきではないが、鹿は増え過ぎたら殺すべきだ、と主張するのであれば、それは明白な種差別である。相手が人であれば、人口爆発が深刻化しても、何とか暴力的にならない解決策を考えようとするだろう。ところが相手が動物であれば、殺しなき解決の模索は初めから「現実離れ」しているということで放棄される。これが「いのちへの礼儀」だろうか。キャリコットに始まるディープ・エコロジーの系譜を「環境ファシズム」と批判するのは環境哲学者らの定番であるが、私はそうした議論をする人々の大半が、現在実際に行なわれている個体数調整という名の環境ファシズムを批判しないのはどういうことかと疑問に思っている。


ペットについて

ペット問題を考える際は、目の前の一匹の犬や猫が幸せそうにみえるというような、表層的な部分だけに注目していてもいけないと思う。もちろん、ペットにつくり変えられた動物たちが、人間に「関心を持ち、自ら近づいてくること」はある。そして両者が稀に幸福な関係を築きうることも否定しない。が、そうした希有なエピソードに着目するあまり、その背景にある恒常的な暴力の働きを見逃してはならない。私が先の書評に対する応答でディネシュ・ジョセフ・ワディウェルの紛争地帯に言及したのはそのためである。該当箇所を引用しよう。


人間と他の動物が互いを変えていくのは事実であるが、その相互形成は暴力的支配の論理によって行方を左右される。これは一見友好的もしくは建設的にみえる関係にもいえることで、例えばペットと飼い主のあいだには、生殺与奪の掌握や性行動の統制、行動と行動範囲の制限、しつけと称する反抗の抑制、訓練と調教、等々の手法群がみられる。ペットは人間に囲われることで新しい技芸や行動パターンを身に付け、飼い主はペットと交流することで新しい人格や動物観を育てるかもしれないが、そうした相互形成の背景には初めからこれらの手法による暴力的支配が存在する。(『最前線』p.234)


あるいはワディウェルの言葉を引用してもよい。


人間と動物の平和的共存が友情の可能性を開く際も、その繫がりは「ペット所有」と「飼い馴らし」の行ないに付随・内在する規律・監視・格納・管理の様式によって疑問に付される。毎年何百万匹ものペットが動物シェルターで「安楽殺」される事実から明らかなように、見かけ上幸福な人間と動物の共存ですら、死をもたらす総轄的暴力の「縁組・養育・安楽殺」の脈絡に沿って形づくられる。(ワディウェル『現代思想からの動物論』p.63)


マルチスピーシーズ研究の従事者などにも当てはまるが、人間と動物の友好関係を強調する論者は、このような支配と非対称のコンテクストをあまりに軽んじているのではないかと思えてならない(*2)。生田さんが挙げた例を振り返ると、エレーヌ・グリモーに近づいた狼も他の動物たちも、人間の管理下に置かれ、人間にとって不適切な行動をあらゆる手で抑え込まれ、人間と関わらずにいる選択肢を初めから奪われている。動物たちがその境遇を不幸と自覚しているか否かにかかわらず、そこには既に支配関係が存し、既に剝奪が生じている。「希有で幸運な出会い」はあくまでそのコンテクストの中で起こりうるものに過ぎない。もちろん、一握りの「希有で幸運な出会い」の陰で、人間の飼育下にある無数の動物たちが不幸な出会いを経験していることは生田さんも認めるだろう。稀な事例に着目し、制度としての動物飼育を事実上容認する思想は非常に問題があると私は考える。


動物小説の役割について

木村友祐氏の小説は、現実にみられる野宿者と猫の関係などを描いているので、フィクションとはいっても松浦理英子や笙野頼子のファンタジーとは性格が異なる(*3)。松浦作品は人が犬に変身してある家族に対抗する話であり、笙野作品はヒトトンボという架空の存在が猫と暮らす主人公を幸福にする話であるが、私はこういった物語(ないしその読み解き)が現実の解放運動にどう繫がるのかが分からない。犬に変身した「種同一性障害」の人は人であって、現実の犬と重なるところは何もない。架空の存在は架空の存在であって、現実の動物とは関係ない。猟師に命を捧げるなめとこ山の熊も、殺生に悩んで星になったさそりも、作家の分身以外の何物でもなく、現実の動物たちとは無縁の存在、というより「非存在」である。乱暴なようであるが、ほとんどの日本人作家は現実の動物をさして観察している様子もなく、動物に関するその洞察も多くは素人料簡の域を出ない(ついでに言えば、動物は猫だけではない)。誉れ高い作家の多和田葉子に至ってはサーカスの調教師と絆を深める白熊などを描く始末である(*4)。フィクションはどこまでもフィクションであり、そこに描かれた人間と動物の共存ないし共闘らしきものを、現実のそれと結び付けるのは飛躍の誹りを免れないだろう。


全体的に、生田さんの議論は世に溢れる友好的な人間動物関係の言説に流され過ぎていると感じる。狩猟にせよ畜産にせよ、種差別主義と肉食主義が深く根付いた今日の社会では肯定的にしか語られないのだから(ましてそれに従事する人々は自分の趣味なり商売なりを守りたいに決まっているのだから)、そうした言説を真に受けていたら私たちはいくらでも動物搾取を容認する考えに染まってしまう。動物搾取に批判的なまなざしを向ける文献が少ない中、生田さんがこれまでの活動で培ってきた社会正義の視点から動物たちの境遇を見つめ、『いのちへの礼儀』という書物を著したことには心から敬服する。しかし僭越ながら、その議論はなお動物不在の感があり、さらなる洗練化が必要であると思われる。

少なくとも批判的動物研究に携わる数多くの学者や活動家たちは、思索に思索を重ね、あらゆるたぐいの反論を踏まえてもなお、狩猟や伝統畜産やその他の動物利用は悪に相違ないとの結論に至っている。単に私がそう思うというだけでなく、私よりも遥かに造詣が深い歴代の研究者や活動家たちも同じように結論してきた。しかもそれは今日の社会通念に反する主張であるがゆえに、相応の手堅い根拠をもって論じられている。動物との倫理的対峙を真に追求するということであれば、私はそうした人々の議論からこそ学ぶべきだろうと考える――それとは別に、主流の動物利用言説がどのようなものかを把握しておくのはよいとしても。

このたびは生田さんとの対話を意識した一方、生田さんの主張に反映された主流の諸言説に答えることも心がけた。そのため、一部言葉が辛辣に過ぎたところもあるかもしれない。それらは生田さん個人を超えた、動物支配を支える多数派のイデオロギーに向けられていると捉えていただければありがたい。こうした本音の意見交換ができるのは幸いなことだと思っている。今はまだ生田さんとのあいだに、動物問題をめぐる考え方の温度差を感じるが、他方で種を超えた非暴力社会の追求という目標においては、大きなずれがあるとも思わない。対話を重ねていけば、今ある溝もきっと埋まり、私たちはより強固な相互理解と連帯を育みうると信じている。



*1 例えばAll-Creatures.org (2009) “Compensatory Rebound Effect,” https://www.all-creatures.org/articles/ar-compensatory.htmlならびにDeer Friendly (n.d.) “Rebound Effect,” https://www.deerfriendly.com/deer-population-control/Effect-of-Hunting-on-Deer-Reproductionを参照(2022年8月15日アクセス)。また、Lisa Kemmerer (2015) Eating Earth: Environmental Ethics and Dietary Choice, Oxford: Oxford University Press, p.96も参照。


*2 例えば人類学者ポール・ハンセンの見方では、工場式酪農場の人間動物関係も、牛と労働者の駆け引きで成り立つ「ダンスレッスン」へと還元されてしまう(ハンセン「乳牛とのダンスレッスン」近藤祉秋、吉田真理子編『食う、食われる、食いあう――マルチスピーシーズ民族誌の思考』青土社、2021年所収)。これは牛の経験と人間労働者の経験を、参与観察者の立場からともに弄ぶ悪質な遊戯であると考える。私が酪農場の労働者であったら、自分の業務を「ダンス」などと形容されることに屈辱を覚えるだろう。


*3 ただし、木村氏が動物解放活動家をテロリストとして描く漫画『ダーウィン事変』を公に「おすすめ」していたのは非常に残念だった。

https://twitter.com/kimuneill/status/1515341722535936003(2022年8月14日アクセス)

氏は上の投稿で、活動家をテロリストに仕立てる描写を問題視しながらも、「過激派組織とは相容れないヴィーガンの立場も丁寧に描いていると思われ」ることから、本作を「冒険的思考に満ちたマンガ」「環境人文学の題材にもなると思う」と高く評価している。

『ダーウィン事変』の問題については、可能であればいずれ書評を通して包括的に論じたいと考えているが、さしあたり木村氏(やその意見に賛同する人々)に問いたいのは、もしも描かれているのがビーガンではなく他の集団、例えば野宿者や外国人であったらどうか、ということである。社会への復讐と称して町の人々に襲いかかる恐ろしい浮浪者と、そのやり方に反対する「良い野宿者」を描く作品があったとしたら、従来の野宿者描写よりはずっと健全だということで、人権教育の題材にしたいと言うだろうか。排外主義者への復讐という名目で無差別殺人を企てる外国人の犯罪ネットワークと、移住先の国で平和に暮らす「良い外国人」を描いた漫画があれば、同じように賞讃するだろうか。非当事者が「良い当事者」と「悪い当事者」を仕分けることの暴力性、ならびに、非当事者が出鱈目な当事者像を描いて人々の偏見とステレオタイプを強化することの暴力性について、よく考えてほしいと思う。


*4 多和田葉子『雪の練習生』新潮文庫、2013年。本作ではサーカス団にいた白熊が当時を振り返り、調教師が「食事を作ってくれた」こと、排泄物を「取り除いてくれた」こと、芸の褒美で角砂糖を口に「押し込んでくれる」ことなどを懐かしむ。芸を仕込むための虐待を受けても、当の白熊が調教師を恐れ憎むことはない。それどころか白熊はサーカスを虐待として糾弾する人々、すなわち動物の権利の擁護者に侮蔑的なまなざしを向ける。

実際わたしは、自分に「人権」と縁があるなんて、それまで思ってもみなかった。「人権」などというものはそもそも人間のことしか考えていない人間が考え出した言葉だと思っていたからだ。タンポポに人権はない。ミミズにもない。雨にもない。兎にもない。ところが鯨となると、人権のようなものを持っている。……どうやら人権とは、図体が大きい者の持つ権利らしい。(p.71)

動物の権利確立を求めるのは人間の思惑でしかなく、動物たち自身は権利など欲しない、という月並みな考え方は『ダーウィン事変』にもみられるが、それはさておき、多和田作品はこのように動物版のミンストレル・ショーになっている。その動物理解はいわゆる「普通の人」、無邪気にサーカスを楽しむ観客のそれと変わらない。そして私がみるかぎり、他の多くの文芸作品にみられる動物観もこれと大同小異である。作家の感性は過大評価されていると言わざるを得ない。


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