生田武志氏に答える【後編】
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感情・感性・尊厳
さて、次に生田氏は、寄り添い(ケア)の倫理で唱えられる感情の復権に対し、感情のぶつけあいはしばしば建設的にならないとして、感情よりもそれを批判的に鍛え直した「感性」のほうが重要である、との見方を示している。こうした見方は珍しくなく、昨今では寄り添いの倫理に対する批判として、感情の誤りやすさや普遍化の難しさを指摘する議論がみられるのであるが、私にはなぜこのアプローチが感情一本槍の勧めと解されるのかが分からない。寄り添いの倫理は他者の主観的経験を汲むために、従来軽視されがちだった感情の行使が必要であると説くものであって、感情の赴くままに物事を判断するという枠組みでもなければ、まして感情をぶつけあうのがよろしいという教えでもない。『最前線』ではそうした誤解を正すために、批判者の主張を念頭に置きつつ同アプローチの解説を試みたのであるが、伝わりにくかったのだとすれば私の力量不足かもしれない。感情の誤りを防ぎ、その用い方を磨く必要性があるという点については、バージニア・ヘルドやジョセフィン・ドノバンの理論解説で触れているので、そちらを参照されたい(『最前線』p.302-3, 310-2)。また、寄り添いの倫理が社会的視点を包含すること、その枠組みではそもそも個人的領域と社会的領域を二分する考え方が批判されていることも述べている(『最前線』p.302, 311)。
続いて尊厳のくだりで気になったのは、憐れみや思いやりが「上から目線」ではないかという指摘である。これもよく聞かれる議論であるが、他者の悩みや苦しみに思いを馳せて胸を痛める心の働きや、それにもとづくしかるべき配慮が、なぜ「上から目線」ということになるのだろうか。そもそもそうした感情を抜きにした時、「自分と他者の尊厳をともに尊重したい」という強い意志が生じるとは思えない。実際、哲学的興味から動物倫理学の理論を学んだ人々の多くが、種差別の不正を頭では理解しても脱搾取を実践しようとしないのは、理論知が理論知に留まり、そこに憐れみや思いやりの感情が伴っていないせいではないかと疑う(これは倫理学テキストの書き手の問題でもあり、だからこそ『最前線』は机上の理論概説に終始しないよう、常に動物たちの現状を離れない記述を試みた)。
なお、尊厳については『礼儀』でも詳しく扱われているが、私はその議論に強い違和感を覚えた。そこではまず動物園に暮らす動物たちの境遇が検討され、かれらは極力痛みのない状態で飼われているが、尊厳を剝奪されていると論じられる(動物園の動物が本当に自覚的な苦痛を感じていないのかも疑問であるが、その点はひとまず脇に置く)。続いて千松信也の著作にもとづきつつ、狩猟は野生動物たちに健全な恐怖心(自然に不可欠な痛みや苦しみ)を与え、かれらの尊厳を守る、との議論が展開される(『礼儀』p.268-70)。
私は尊厳の尊重という原則が、「健全な恐怖心」を植え付けるという名目でのパターナリスティックな暴力を正当化するのであれば、それは有害な論理に違いないと確信する。狼がいようといなかろうと、自然界にはほかにいくらでも危険が溢れており、狩猟者がお節介にも野生動物に喝を入れてやる必要はない。そもそも殺される動物たちにとっては、猟師の恐怖を知った時には既に死ぬだけの状態なのであるから、尊厳も何もあったものではない。猟師のたわごとを真に受けず、こうした当然の倫理的判断をするためにも、やはり動物たちの身になって考える憐れみや思いやりが必要であると感じた。
家族への対抗
最後に生田氏が指摘するのは、『最前線』では家族と子供の問題が掘り下げられていない、という問題である。いささか虚を突かれる批判であったが、動物の解放と子供の解放がいかにして共闘できるかというテーマは探究されてよいかもしれない。もっとも、人の子を年相応の子供として扱うことと、成熟した動物を子供として扱うことは別の事態であり、人の子の扱いと動物の扱いは大きく異なるのであるから、ことさらに動物を人間家族のポジションに当てはめて捉えるのも危うさがあるとは思われる。
私見では、『最前線』第一章のペット産業の節が、動物の子供扱いと家族の問題に関する分析の役割を果たしたと思っている。そしてCASの根幹をなす動物の権利論はそもそもペットの所有を認めないので、家族への対抗運動についてそれ以上の議論が行なわれないのは当然かと思われる。少なくとも動物たちにとっては、人間の家族に組み込まれないことがすなわち家族からの解放なので、あとは現実にペット産業を廃絶するための運動を進めればよい。その他、救助した動物との同居のあり方なども真剣に議論されなければならないが、それは家族への対抗運動という枠組みで捉えられるべき問題とは異なる。
もっとも、生田氏は動物解放論が人間と動物の関わりを断ち切るとみてこれに異を唱え、「人間と動物が矛盾を孕みながら共存し、ともに解放される」道筋を追求しているので(『礼儀』p.286)、動物飼育の廃絶という上の結論には賛同しないかもしれない。『礼儀』では人間と動物の共闘による家族への対抗が論じられている。しかしながら、これも同書の議論において説得力を欠く部分ではないかと私には思われた。松浦理英子や笙野頼子のファンタジー小説が現実世界における人間と動物の共闘や家族への対抗について何の有益な示唆を与えるのかはよく分からず、その後に取り上げられる動物介在療法その他では、あくまで人間が家族公理系から解放されるのみであって、動物はそのための媒介、ないし道具とされているに過ぎない。人間と動物が「矛盾を孕みながら共存」するかぎり、人間が動物の力を借りて解放されることはあっても、動物がともに解放されるシナリオは全く出てこないのである。ディネシュ・ジョセフ・ワディウェルのいう紛争地帯の議論はここにも当てはまる(『最前線』p.233-4. また、『現代思想からの動物論』も参照)。
なお、本書評ではペットの扱いにちなんで救命ボートの事例をめぐる解釈も示されている。『礼儀』でも示された議論であるが、人々は人間と動物の命が天秤にかかった際は人間の命を救うと言いつつ、現実には途上国などの困窮者を見殺しにしてペットに大金を費やしている、という指摘である。これはまことにその通りで、富裕国の住人が真剣に向き合うべき問題には違いない。
が、救命ボートの事例が「現実の人間動物関係を考えるうえで何らの示唆も与えない」という私の結論は変わらない。家族贔屓・途上国無視の問題は、どちらの命を救うかという救命ボートの問題とは本質的に違うものだと考える。ペットに巨額を投じるほどの人々は、家族の幸福を十全に満たし、なおかつその有り余る富を困窮者の支援に回すことが可能でありながら、単にそうしていないだけだからである。これはもとより選択肢が限られた極限状況での行動ではない。また、富裕国の住人は浪費の陰で息絶えていく人々の犠牲を平生意識していない。その見殺しは故意に救命ボートの乗組員を海へ落とす行為とは道徳的に異なる。そして人々が困窮者を見殺しにしつつ金を投じる対象は、ペットだけに限らない。大半の人々は困窮する他人に背を向け、自分の欲望を満たすことにのみ金を注ぎ込む。スマートフォンの買い替え、車のメンテナンス、ファストファッションの浪費など、その例は枚挙にいとまがない。あえて天秤の比喩を使うなら、その皿に載っているのは家族の命と他人の命ではなく、自分の欲と他人の命である。そして天秤は常に前者に傾いている。最後に、救命ボートの仮説ではそもそも乗組員のあいだに家族のような特別な関係はないものと想定されている。家族関係のような要素が入れば海に落とす者の選択が変わってくることは全ての哲学者が認めるだろう(『動物の権利入門』を参照)。そして、現実には存在するはずのそのような関係要素を捨象するからこそ、私は救命ボートの事例に代表される思考実験のたぐいが、現実の板挟みを検討する点で役に立たないと考える次第である。
本稿は生田氏の書評に対する応答として書いたものということもあり、これまでのやりとりよりも直接的に考えの異なる部分を問題化した。そのため、いささか筆致が辛辣に感じられるところもあると思うが、論争ゆえのことと割り切っていただければありがたい。氏と私では世代も経験も異なる以上、考え方に多くの違いがあるのは驚くに当たらない。とはいえ、動物倫理の問題群には膨大な命が懸かっているため、白黒をはっきりさせなければならない争点もある。そのためにもこのような議論を通し、認めてよい違いは認め合い、埋めるべき点は埋めていきたいと考えている。もちろん、本稿の内容に対する氏の再反論も歓迎である。
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