『現代思想』後記

『現代思想2022年6月号』の討議は、私にとって2度目の対談企画になる。対談は面白いので今後も機会に恵まれれば積極的に行なっていきたいと考えているが、なにぶん即興的な要素が大きいので、どうしても詰めが甘くなる。対談を終えた直後はそこそこ有意義な話ができたのではないかと満足するのだが、しばらくするとあれこれ反省点が見つかる。生田氏と行なった前回の対談も、伊勢田氏と行なった今回の対談もそうだった。前回のほうはともかく、『現代思想』は刊行されてまだ間もないので、話題が古びる前にそうした点を顧みて多少の補足を書いておきたく思った。


しかし反省点を振り返る前に、話の中で紹介した議論のうち、出典を示せなかったものの書誌情報をここに載せておきたい。

まず、15頁で触れているマシュー・カラーコの議論は複数の著書で展開されているが、特に重要なのはMatthew Calarco (2015) Thinking Through Animals: Identity, Difference, Indistinction, Stanford: Stanford University PressおよびMatthew Calarco (2020) Beyond the Anthropological Difference, Cambridge: Cambridge University Press である。

20頁で紹介したネイサン・プワリエールの議論はNathan Poirier (2018) "The Continued Devaluation of Vegetarianism in Light of In Vitro Meat," in Journal for Critical Animal Studies 15(5): 3-27を出典とする。

このほかは特に出典が分からない資料はないと思われる。10~11頁で語った動物倫理学と批判的動物研究の展開については拙著『動物倫理の最前線―批判的動物研究とは何か』で詳しく解説しているので、そちらを参照されたい。


今回の対談では、伊勢田氏が動物倫理学を研究されている動機について尋ねることができたのが、私にとって最大の収穫だった。また、他の論点についてもそれぞれの持ち味がよく表れた内容になったのではないかと思っている。

とはいえ、冒頭に述べたように、後になって気づいた問題点もある。これは私の対談作法によるところもあったのかもしれない。今回、私は論争をする前提で挑まなかったので、伊勢田氏が言うことの中で自分と考えが違うと思う部分があっても、あまりそうした細かい点に関し争おうとせず、むしろ面白いと思った点を拾い出して話題を膨らませていくほうを優先した。結果、色々なトピックを扱うことはできた代わりに、少々ちぐはぐな箇所や掘り下げの甘い箇所が生じてしまった。ここでは2点だけ取り上げる。

まず、14頁の記述をよく読むと、私はドミニク・レステルに対する批判として、ビーガンの声を代弁しつつ、「今まで行ってきた習慣だからそれを肯定すべきだとは言えないだろう」と述べている(少なくともそのような批判が可能だろうと示唆している)。ところがそのすぐ後では、先住民などの動物利用に関し「『伝統や文化だから善いものとは限らない』とバッサリ切ってしまって本当に大丈夫なんだろうか」と問題提起をしている。これは矛盾しているように思われるかもしれない。

私の考えでは、レステルのような北側先進国の論者が、古き良き人間動物関係(とされるもの)や「喰う‐喰われる」の関係などを引き合いに出して肉食を正当化することに対しては、「習慣や伝統であることは当の行ないの正当性について何も示唆しない」というロジックのもとに一刀両断して構わない。そして元来、同じロジックは先住民等の文化を検討する際にも有効でなければならない。先住民文化といわれるものの中にも男尊女卑や障害者迫害はあり、そうした有害な伝統は批判にかけられてしかるべきである。ならば動物搾取の伝統だけを別扱いする理由はない。

それはそうなのであるが、植民地時代の負の遺産や人種・民族間の圧倒的な不平等が今なお存在する中で、抑圧者の末裔にあたる人々がみずからの善悪の基準にもとづき、抑圧されてきた歴史を持つ他文化圏の伝統を批判するとしたら、よほど慎重に話を運ばないかぎり相互理解には至らないと思われる。伝統が必ずしも善いものとは限らない、悪い伝統は滅びるべきなのだ、という主張は、それ自体としては正当でも、上のような歴史的力関係がある状況では、正義の名を帯びた新たな人種差別や文化帝国主義と受け取られやすい。しかも悪いことに、正義の名を帯びた抑圧は現にあり、ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクはそれを「白色の男たちが褐色の女たちを褐色の男たちから救う」という言葉で言い表わした(Gayatri Chakravorty Spivak, "Can the Subaltern Speak?")。動物擁護の訴えが同種の抑圧と混同されないためには、相手の文化や世界観への理解を伴ったより丁寧な対話努力が必要と思われる次第である。

次に、20頁以降の培養肉に関する議論では、培養肉開発=構造変革、ビーガニズム=個人努力という対立図ができあがってしまっていることに気づいた。これは私の見方ではなく、伊勢田氏が故意にこしらえた図式でもないと思うが、対談では結果としてそのような流れになっている。

実際の私はビーガニズムの普及にも個人努力と構造変革の両形式があると考えている。そして、培養肉開発もビーガン食品の開発や提供も、脱肉食ビジネスという構造変革の一環であるが、種々の問題を抱える前者(培養肉開発)にリソースを割く利点が分からない、ということを述べたかった。20頁でも軽く触れているように、ビジネス手法による社会の脱肉食化は倫理的なパラダイムシフトを起こす点で限界もあるだろうと感じるが、だからといってビジネスを全否定するつもりはなく、個人努力を広めるだけで充分だというつもりもない。ただしそのビジネスが培養肉開発である必要はないだろう、ということである。なお、ここは特に深入りするほどのことでもないだろうと思ったが、教育や啓蒙は、個人を変えるという意味では個人重視のアプローチであるにしても、それを組織的に実施する者の視点に立てば構造変革の一環に含められるという点は述べておいてもよかったかもしれない。


他の論考については余裕があれば所感を述べるとして、討議のおおまかな反省点については以上の通りである。ほかにも細かい粗はあるかもしれないが、寛容な視点で楽しんでいただければありがたい。




ペンと非暴力

翻訳家・井上太一のホームページ

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