象牙の塔のアカデミズム

ここのところ、動物問題や動物倫理を話題とする大学のシンポジウムが立て続けに開催されたので、参加できるものは参加していたのであるが、そこで奇妙な悪習が定着していると感じたので批判を述べておく。

大前提として踏まえておかなければならないが、私の参加したシンポジウムは全て、日本の大学において、おもに日本人からなる聴衆(学生および一般人)を対象に開かれた教養講座であり、国際的な交流や発信を企図する学術会議の類ではなかった。が、それにもかかわらず、演壇に立った日本人の学者たちの中には、なぜか英語でレジュメを作成し、英語で話を進める講演者らがいた。当然ながらこれは聴衆にとって甚だ不便なことで、英語が分からない人々は、通訳サービスがあった一例を除き、完全に置いてけぼりで、途中退室する姿もちらほら見られた。

学問の普及を使命とする大学という場において、学者たちはなぜこのような仕打ちをするのだろうか。テーマとは全く関係のないところで語学の教養を求めることは、学問を閉鎖的にするだけで、何の利点があるとも考えられない。なぜ無意味なハードルを設けるのか。まさかここには、学ぶ意欲があっても教養の乏しい一般庶民は、学問の園に足を踏み入れるな、という暗黙のメッセージが込められてでもいるのだろうか。「グローバル・スタンダード」たる英語を理解できない者は学問する資格すらない、ということだろうか。

いや、おそらく主催者や講演者の気持ちは別にあるのだろう。端的にいえば、下らない教養のひけらかしである。流暢な英語を使って講演を行ない、流暢な英語を使って少数の聴衆と質疑を交わしていれば、話の内容がどうあれ何となく高尚なことをしている気になれる。一昔前の日本の哲学研究者らがバカバカしいほど難解かつ冗長な言い回しで空論を弄んでいたのと同じである。

語学の壁というあらずもがなの障壁を取り払い、学問を民主的にしようと努める私は、あえて民主性から遠ざかろうとするこの傾向を心から嫌悪する。こうしたナンセンスこそが、学問に参加できる人々を不当に限定し、ひいては日本の学問を底の浅いものにしている。本人たちは得意になっているのであろうが、事実は、さして小慣れてもいない英語で、分かりにくい話を余計に分かりにくくし、あまつさえ聞き手の理解さえ中途半端なものとしているに過ぎない。学問はむしろ低俗になっている。

もしかすると、中にはこう反論する立場があるかもしれない――話の内容によっては、日本語で説明するよりも英語で説明する方が容易なこともあるのだ、と。しかしそれは単に日本語のスキルが低いことの言い訳でしかない。本当に日本語での説明が難しいと感じるのであれば、そのような者は講演に必要な最低限の技能を欠いているのだから、そもそも演壇に立つべきではないのである。




ペンと非暴力

翻訳家・井上太一のホームページ

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