資本主義下の動物搾取とビーガニズム

以下に掲載するのはビーガニズムをテーマとする新雑誌『HUG』の第2号に掲載する予定だったエッセイである。諸事情により、『HUG』第2号の制作が滞って発刊の見込みもなくなってしまったため、ここに拙論を公開することとした。当該号ではビーガニズムと資本主義の関わりをテーマとしていたため、本稿もそれに即した内容となっている。漢数字をアラビア数字に改め、注釈の記号を変えた以外、執筆当時の形に手を加えてはいない。




資本主義下の動物搾取とビーガニズム


金を投じて商品をつくる。商品を売って儲けを生む。儲けが生まれるということは、最初に投じた金が商品へと変わり、そこから新たな価値が生まれたことを意味する。こうして、価値を生み増やす過程に投じられる金、生産活動の元手となり駆動力となる金は、単なる貨幣ではなく《資本》となる。資本を投じて生まれた儲けを、事業者がさらなる生産拡大に投じれば、さらに新たな価値が生まれ、新たな儲けが生まれるだろう。資本主義とは、このような資本の自己増殖運動が社会の富を膨らませていく経済体制、つまり平たく言ってしまえば、儲けに次ぐ儲けで成り立つ経済体制とひとまず理解できる。

人類は太古の昔から動物たちを狩り、従え、滅ぼしてきたので、現代にみられる動物搾取の源が資本主義にあるということはできない。しかしながら、資本主義は動物搾取の激化を招いた。それには資本主義の本質であるところの《売るためのものづくり》、すなわち商品生産が関わっている。商品とは、単にあれやこれやの目的に使えるというような使用価値を持つものではなく、市場で取引できるという意味での交換価値を持つものと定義できる。単に使用価値を持つものというだけなら財産と変わらないので、商品の商品たるゆえんはこの、交換価値を持つものという点にある。それは生産者にとって、自分に必要なものではなく、あくまで売るためのもの、儲けを生むための手段にほかならない。動物たちは資本主義のもとで、このような商品取引のシステムに組み込まれた。かれらの境遇がそれによっていかなる影響を被ったか、以下、私たちに関わりの深い食品部門の状況を中心に、おもな側面を見てみよう。そのうえで、動物解放をめざすビーガニズム運動が資本主義体制のもとで面する課題についても考えたい。


商品化された動物たち

資本主義社会の事業者は、並みいるライバル企業と競い、市場で勝ち残らなければならない。それには技術に投資をして生産の拡大と効率化に努める必要がある。より多くの商品を、より低コストかつ、より短期間で生産できれば、それだけ儲けは大きくなり、市場競争で優位に立てる。そこで企業は生産過程の無駄を排し、人件費を減らすべく作業の簡略化や自動化を進める方針へと向かう。この考え方を動物製品の生産に応用した結果が、工場式の畜産業や養殖業だった。動物たちを一所に閉じ込めて集約飼育すれば、「余計」な運動でエネルギーが消耗されることはなくなるので成長効率や肥育効率が上がり、給餌や搾乳や採卵も機械任せにでき、施設や動物を管理するスタッフも少人数で済む。おかげで過去には考えられなかった数の動物たちを一施設で飼養することが可能となり、規模の経済、薄利多売の構想が実を結んだ。生産者の観点からみれば、このようなシステムの確立は大成功に違いなかった。

しかし、それと引き換えに動物たちの自由と幸福は極小まで切り詰められた。よく知られているように、工場式の畜産場では動物たちが動く余裕もないほどの狭い檻や囲いに閉じ込められ、ただ太ることだけを、あるいはただ子や卵や乳を産出することだけを強いられる。効率的な量産へ向けた分業の論理はかくのごとく、動物たちの生を断片化し、かれらを一機能に特化した「生産機械」として扱う。本来、おのおの独自の個性や欲求を持つはずの動物たちを、均質化された無機質な生産機構の型枠に押し込めることから、多大な苦しみが生じる。動物の苦しみを疑う声は21世紀の今日でも聞かれるが、畜産場では動物たちが柵をかじり続ける、ないはずの餌を食べようとするなどの異常行動を呈しており、それがストレスに起因することは今や畜産学の教科書ですら認めている。もはやデカルトが生きた時代の(非)常識は通用しない。

生産の効率化が招いた弊害は劣悪な飼育環境だけにとどまらなかった。儲けを増やしたい事業者は、生産費用の削減だけでなく、生産サイクルの加速を試みる。例えば1年でつくれる商品を半年でつくれるようになれば、生産者の収益は倍増する。したがって企業は当然そのような技術革新に資本を投じるだろう。動物産業も同じ道をたどった。動物の成長を促進する薬剤投与、肥育効率を上げる飼料の開発、そして育種から遺伝子改変に至る動物身体の改造は、いずれも畜産業の加速を狙った技術投資の産物である。肉用とされる鶏は、1930年代には4カ月でおよそ1キログラム超に成長したが、今日では育種に次ぐ育種を重ねられた結果、半分未満の期間で倍以上の体重に育つ。おかげでかれらは不自然に肥大する体に圧迫され、骨の変形や内臓破壊に苦しむ身となった。採卵業のために育種された雌鶏たちは、生殖サイクルの異常な加速によって体中のカルシウムを卵に奪い取られ、頻繁な骨折に苦しむ身となった。牛も豚も魚介類も、毛皮を剝がれる獣たちも羊毛を刈られる羊たちも同様の苦しみを負わされている。

資本の論理によって本来的な生活経験を破壊された動物たちは、自身の産出物からも、生命活動からも、さらには生そのもの、存在そのものからも切り離される。自身が産んだ子や卵は自身のものでありながら自身に属さない。それは動物産業に利益をもたらす商品である。自身の体は自身のものでありながら自身を苦しめる。それはもはや資本に属する疎遠な敵対物である。経済思想家のカール・マルクスは、資本主義のもとで人間労働者がみずからの本来的なあり方から切り離される事態を《疎外》と称したが、人類学者のバーバラ・ノスケは、人間だけでなく動物たちもまた、同じ生産体制のもとで疎外を被っていると論じた(*1)。


必要悪か、純粋な悪か

工場式畜産をはじめとする大規模な動物搾取は、増え続ける世界人口を養うための必要悪に思えるかもしれない。しかしそれは大きな誤解である。企業は慈善活動がしたいのではない。かれらはあくまで利益の最大化に目標を置く。人々に必要なものだけをつくる社会であれば、今日のような大規模化した動物搾取産業が生まれるはずはなかった。それが生まれたのは、《使うためのものづくり》を超えた《売るためのものづくり》、つまり資本蓄積の企てが始まったことによる。この事実を端的に証明するのが、動物搾取の事業に伴う資源浪費、そして地球の荒廃である。

広く信じられている神話とは裏腹に、今日の畜産業や水産業は人口爆発の処方箋どころか、世界の人々から生きる糧を奪っている。畜産業は世界の農地の約八割を使用しつつ、世界で生産されるカロリーのわずか2割近くしか供給しない(*2)。その畜産物の大半は裕福な北側諸国の住人が消費する。貧しい南側諸国では、畜産関連業者による牧場や飼料栽培地の開発が進められ、農地を奪われた人々が飢餓と貧困に直面している。他方、水産養殖業では鮭やまぐろなどの大型肉食魚を肥育するために、餌となる小型魚を乱獲し、海洋生態系を構成する動物たちはもとより、漁撈に頼らざるをえない貧困国の住人らをも危機に陥れている。フランシス・ムア・ラッペは今から半世紀前に、飢餓の原因は食料不足ではなく非民主的な食料生産システムにあると論じたが(*3)、事態は当時から何も変わっていない。その元凶は逆説的にも、世界を養うと豪語する動物性食品産業にある。

外部不経済の問題に目を向ければ、事の真相はよりはっきりするだろう。外部不経済とは、事業に伴う環境破壊など、生産者のコストに反映されない経済活動の弊害を指す。畜産場や養殖場から排出される膨大な動物糞尿は、大気・土壌・水質汚染を引き起こし、周辺地域を破壊する。畜産由来の温室効果ガスは気候変動の最大原因をなし(*4)、畜産関連の土地開発はアマゾンで進行する森林伐採の91パーセントを占める(*5)。そしてこうまで地球を損ないながら、動物性食品は癌・心臓病・二型糖尿病・肥満などの健康被害を消費社会に広めている。加えて健康被害の面では、動物飼養に使われる大量の抗生物質が、薬の効かない病原体、多剤耐性菌を誕生させる一大原因になっていることも見逃してはならない。社会の必要を満たすためではなく、社会に犠牲を強いてでも短期的な利益をむさぼろうとする巨大資本の思惑が、この不合理きわまる生産システムを世に根付かせた。


市場拡張と「エシカル」の商品化

通常、画一化された量産品はある時点で需要が落ち込んでくる。テレビが珍しかった時代には誰もがそれを欲したであろうが、どの家庭にもテレビが行き渡ると、もはや買い手はいなくなる。食品などの非耐久財はやや事情が異なるが、それもやがて飽和に至る。今日では惣菜も弁当も景品も動物性食品で埋め尽くされ、これ以上に既成の動物性食品を売り込む市場はないと思われるほどの域に達している。そこで企業は絶えず新たなブランドをつくり、従来品との「差異化」を図る。量産の次に訪れるのは、消費者の多様な欲望に対応したニッチ市場の開拓である。

工場式畜産に対しては、近年になってようやく、環境影響や健康被害、そしてごく稀に動物の境遇を憂慮する人々によって批判が向けられ始めた。これに応じて動物産業が生み出したのが、持続可能な水産物、動物福祉に配慮した畜産物、有機牛乳、放牧卵などの「エシカル」商品市場だった。「エシカル」とは「倫理的」という意味であり、これは消費者の倫理的関心が市場に取り込まれたことを意味する。環境負荷の低さを売りにする昆虫食、動物を救うといわれる培養肉なども同類の新しい商品に数えられるだろう。日本ではさらに「命と向き合う」狩猟やジビエ消費が一つの市場を形づくり、「エシカル」で賢明な消費者を自認する人々の人気を集めている。

市場の弊害は市場の力によって乗り越える、という発想は魅力的に思えるかもしれないが、この新たな「エシカル」市場は動物搾取の解消よりも、その維持とさらなる強化へ向かう。放牧は一般に思われているほど福祉的でも持続可能でもなく、培養肉は開発過程で動物の細胞利用や動物実験を行ない、狩猟は殺す側の自己満足でしかないというように、それぞれ違いはあるにせよ、これらの商品はいずれも人間以外の動物たちが人間の資源であるという見方を温存する。その意味で「エシカル」商品は従来の動物商品と同じイデオロギーの産物にほかならない。従来品と違うのは、「エシカルに振る舞う私」というイメージを消費者に提供する、その付加価値の部分のみである(*6)。

加えて「エシカル」商品の隆盛は従来型の動物搾取をなくすことにもつながらない。なぜならそれは既成秩序に抗議する社会正義ではなく、資本の運動に則る新たな市場開拓にすぎないからである。消費者の選択肢が増えることは、従来の悪しき選択肢がなくなることを意味しない。金のある者は動物福祉に配慮したハッピーミートを買うもよし、貧しい者はこれまで通りの安い肉を買うもよし。というわけで、バラエティ豊かな「エシカル」商品が北側諸国の富裕層を捉えるかたわら、工場式畜産は環境規制や動物福祉規制の緩い地域で拡大し続けている。さらに培養肉の開発企業であるインテグリカルチャーが日本ハムと提携したことなどに象徴されるとおり(*7)、「エシカル」商品の開発者らは巨額の資金を得るために食肉大手と一体になり、競合関係どころか共生関係を築いてさえいる(*8)。

多種多様な「エシカル」商品が存在する市場では、ビーガニズムもまた数ある選択肢の一つと化してしまう。動物搾取があまたの倫理問題を引き起こしているのであれば、動物を消費する習慣そのものを見直さなければならず、それを形にできるのはビーガニズムをおいてない。ところが市場では「エシカル」を名乗る見えにくい搾取のラインナップが提示され、その消費がさも動物産業の弊害を解消する有効な選択肢のように喧伝される。あいにく、食料主権や資本主義批判の分野で知られるリベラルの論客たちも、市場が用意した「エシカル」な動物搾取の選択肢に魅せられ、放牧や狩猟、あるいは昆虫食を工場式畜産に代わる道として擁護するにとどまっている(*9)。巧妙化した資本は社会正義の従事者たちをも買収しおおせた。


資本に対抗するビーガニズム

動物搾取は資本主義体制のもとで大規模化し、多様化した。儲けを生み続けるには絶えず新たな市場を開拓し、拡張していかなければならない。この無限の拡張運動こそが前代未聞の果てしない動物商品市場を形づくった。のみならず、資本は人々の倫理的関心をも取り込み、社会正義の商品化、ひいてはその無力化に成功した。

動物商品の不買を行ない広めるビーガニズムの運動は、それ自体が資本主義批判としての機能を持つ。しかしながら、資本の戦略を見据えるとすれば、その取り組みにも見直すべき点はあるだろう。海外ではKFCやマクドナルドといったファストフード大手がビーガンメニューの提供を始め、店頭に長蛇の列ができる事態となった。ビーガンメニューを買い求める客の中には非ビーガンも大勢いたであろうが、多数のビーガンも並んでいたことは疑えない。日本でも食品大手や外食チェーンが植物性食品の発売を始めると、ビーガン界隈で喜びの声が上がり、早速「食レポ」を書く人々が現れる。ビーガン商品が売れるとなれば、利益追求に明け暮れる企業はもちろんビーガンを魅了するものをつくり、ビーガンを顧客に取り込もうとするだろう。他方、その同じ企業はビーガンの賞讃に浴しつつ、今までどおり大規模な動物搾取を遂行し続ける。企業の視点でみれば、ビーガン商品は顧客層を広げるためのアイテムにすぎず、搾取産物のラインナップと何の問題もなく共存しうる。

ビーガニズムの本質は動物搾取への反対、さらにはあらゆる搾取への反対であり、その取り組みは新しい市場の応援ではなく、今ある搾取市場の縮小、そして最終的な廃絶をめざすものでなければならない。動物搾取を脱した生活には独自の楽しさがあり、それをビーガンが世に広めるのは大いに結構だろう。そのような形でビーガニズムに挑戦する人々を増やすことができれば、それは立派な啓蒙活動である。が、ビーガニズムの運動は非暴力的な生活の楽しさを広めるとともに――おそらくそれ以上に――動物搾取を続ける諸産業と社会への批判を行ない、かつその搾取が人々の必要を満たすためでなく一握りの者の懐をうるおすために行なわれている事実を世に訴えていかなければならない。全てを呑み込む資本はビーガニズムをも市場に取り込み、動物たちの正義闘争に携わる人々の買収を企てるが、私たちはビーガン市場のすぐ裏に今なお広大な搾取市場が広がっている現実、それどころか資本主義が生んだビーガン市場は搾取市場と地続きである現実を見据え、最後の檻が空になるまで抗議の声を上げ続けていく必要があるだろう(*10)。



*1 Barbara Noske (1990) Beyond Boundaries: Humans and Animals, Montreal: Black Rose Books. 日本語の解説としては、拙著『動物倫理の最前線』(人文書院、2022年)の136-43頁を参照されたい。

*2 Hannah Ritchie (2017) "How much of the world's land would we need in order to feed the global population with the average diet of a given country?" Our World in Data, https://ourworldindata.org/agricultural-land-by-global-diets(2023年1月31日アクセス)。

*3 Frances Moore Lappé (1971) Diet for a Small Planet, New York: Ballantine(フランシス・ムア・ラッペ著/奥沢喜久栄訳『小さな惑星の緑の食卓――現代人のライフ・スタイルをかえる新食物読本』講談社、1982年)。

*4 例えばRobert Goodland and Jeff Anhang (2009) "Livestock and Climate Change. What if the key actors in climate change were pigs, chickens and cows?" World Watch Magazine November/December, Washington, DC: Worldwatch Instituteを参照。

*5 Sergio Margulis (2004) "Causes of Deforestation of the Brazilian Amazon," World Bank Working Paper 22, Washington, DC: World Bank, p.9.

*6 この問題については、バシレ・スタネスクによる「ポスト商品物神」の分析を参照されたい。『動物倫理の最前線』133-6頁。より詳しくはVasile Stănescu (2017) "New Weapons: 'Humane Farming,' Biopolitics, and the Post-Commodity Fetish," in David Nibert, ed., Animal Oppression and Capitalism Vol.1, Denver: ABC-CLIO, p.209-228を参照。

*7 IntegriCulture Inc.(2019)「食肉業界最大手の日本ハムと共に細胞培養肉の基盤技術開発を開始」https://integriculture.com/news/716/(2023年2月3日アクセス)。

*8 「エシカル」商品の開発者、特に培養肉企業と食肉大手の共生関係についてはCLEAN MEAT HOAX (n.d.) "Green- & Vegan-washing Evil Companies" https://www.cleanmeat-hoax.com/green---vegan-washing.htmlも参照(2023年2月3日アクセス)。

*9 例えば斎藤幸平『ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた』(KADOKAWA、2022年)では、資本主義と「エシカル」市場の欺瞞を批判しているはずの著者が、ジビエ産業を無批判に擁護してしまう。また、生田武志『いのちへの礼儀――国家・資本・家族の変容と動物たち』(筑摩書房、2019年)も、工場式畜産を批判するにとどまり、やはり伝統的な牧畜や狩猟を擁護する立場をとる。工場式畜産のみに批判を向けつつ、より「エシカル」に思える動物搾取を尊ぶリベラルは驚くほど多い。

*10 資本主義との闘いを視野に入れた動物解放/ビーガニズム運動の具体的戦略については、『動物倫理の最前線』第三章以降(特に172-6頁)も参照されたい。


◆活動支援のお願い◆


ペンと非暴力

翻訳家・井上太一のホームページ

0コメント

  • 1000 / 1000