【寄稿】社会正義組織のビーガン排除に抗議する

先ごろ、とあるフェミニズム組織のイベントに参加したビーガンの深沢レナ氏(「大学のハラスメントを看過しない会」代表)が主催者らによる排除を経験したとの知らせを受けたため、当該組織への抗議文を作成し、深沢氏の団体ウェブサイトに寄稿させていただきました。ビーガン排除は左翼やリベラルの運動においても広くみられるため、多くの方にこの問題を知っていただきたいと願っております。


以下、拙論の全文を転載します。




社会正義組織のビーガン排除に抗議する

井上太一

       

ビーガンは抑圧される動物たちの解放を求める者であり、みずからの解放を求める者ではない。しかし、動物搾取があらゆる生活場面に組み込まれ、搾取産物の消費が人間の正当な権利と認められているこの社会では、ビーガンたち自身が「承認されざる存在」として――生活上の不便や困難を強いられるだけでなく――しばしば大衆の敵と目され、差別や排除の標的となる。法人メディアにおいてもソーシャルメディアにおいても、それどころか面を合わせる生身の人間関係においても、ビーガンは得てして肉食者の罪悪感に起因するネガティブな偏見や憎悪を向けられる。あいにくそれは社会正義に理解のない人々だけの話ではなく、社会正義の支持者を自負する人々にもみられる傾向である。ビーガニズムは人々に知られだして間もない正義であるため、他の社会正義を標榜する人々ですら、その主張だけは露骨に無視・軽視・否定してよいものと思い込んでいることがある。

ビーガンと他の正義論者(あるいはそれらしき人々)の大きな軋轢はこれまでにもいくつかみられた。2018年には「反差別」集団CRACとその取り巻きが、発言に含まれる動物蔑視をビーガンに批判されたところ、報復として罵詈雑言と肉画像をビーガンに送りつけるといったハラスメントを行なった。左派出版社の影書房は取り巻きによる便乗発言をリツイートするなどして、このビーガンバッシングに加勢した。以後、ビーガンに肉画像を送りつける手法はアンチビーガンの手口として定着する。2019年には「やや日刊カルト新聞」創刊者の藤倉善郎ならびに同紙主筆の左派ジャーナリスト・鈴木エイトが、動物消費に異を唱えるアニマルライツセンター主催のデモ「動物はごはんじゃないデモ行進」を嘲笑する意図から、「カウンター」として「動物はおかずだデモ行進」なる妨害を行なった。2023年には再びCRACが動物蔑視の発言をビーガンに批判されたが、あいにく代表者・野間易通やその取り巻きの反応は2018年と全く変わらず、神学研究者の上原潔などがその加勢に回る始末だった。

不特定多数が見ている環境でさえ、左派やリベラルの態度はこの有様なので、もちろん非公式・非公開の場でビーガンが社会正義コミュニティから除け者にされるといった事態は容易に起こりうる。このたび深沢さんが被った排除はまさにその一例だった。しかも今度は俗悪な左派男性コミュニティではなく、ウェブサイトで「インターセクショナリティの視点」を大事にすると言い、「私たちの活動そのものも……排除の実践となっていないかどうか問い直さなければなりません」とさえ宣言しているリベラルなフェミニスト組織での出来事だったというのであるから、まことにもって遺憾なことと言わざるを得ない。

「食のバリアフリー」という概念が徐々に広まりつつある現在にあって、参加者の中に動物性食品を食べない人がいるかもしれないという前提すらなく、当たり前のように不平等な対応をする時点で、既に排除は生じている。しかしそれだけであれば、悪意のない差別として問題提起し、今後の改善に期待することもできたかもしれない。より深刻なのは、アカデミシャンでもあるA氏・B氏が、深沢さんの問題提起に対し強弁とガスライティングで応じたあげく、ビーガンというアイデンティティそのものの否定にまでおよんだことである。

動物の死体や分泌物を食べないことは屠殺業者や食肉業者への差別である、という議論は、肉食擁護者によって切り札のように持ち出されるが、一体なぜビーガンは誰でも思いつくその程度の問題すら考えていない者とみなされるのか。同じことを何度も説明する気はないので、過去の文章から引用すると、「これは事実誤認も甚だしい。日本で実際に屠殺業者を差別してきたのは畜産物の消費者である。殺生戒を奉じていた仏教徒も含め、動物利用の産物を積極的に消費してきた人々こそが、自分の責任を棚に上げ、動物殺しに直接携わる人々をいわばスケープゴートとして貶めてきたというのが歴史の現実である」(『肉食の終わり』「訳者あとがき」p.246)。ところが職業差別を正当化できなくなった動物殺しの依頼人たちは、今日に至って矛先を変え、感謝して動物搾取の産物をいただく自分たちではなく、搾取産物の消費を拒むビーガンこそが業者を差別していると主張し始めた。マジョリティを倫理的ポジションに位置づけるため、ビーガンは差別者に仕立て上げられたのである。アイデンティティそのものが差別的であるという言明は、つまるところビーガンの存在否定にほかならない。

   

ビーガンは特権者だという主張も、ビーガンはうんざりするほど聞かされている。なるほどビーガン食品やビーガン料理は総じて高価格のものが多いため、相応の特権がなければビーガンとして暮らすことは困難に思えるかもしれない。しかしそれは現実の一端しか見ていない。私からみれば、安価な選択肢がいくらでも存在する非ビーガンのほうが明らかに特権者である。頻繁に外食チェーン店を利用し、ワンコインで食事を済ませる、などという特権はビーガンにはない。スーパーに並ぶ無数の安い菓子や惣菜や加工品を消費する、などという特権もない。ビーガン対応を銘打たない外食店は通常、ビーガンからみれば「排除レストラン」でしかない。スーパーの加工品コーナーはビーガンからみれば不毛の大地に等しい。ビーガン対応の外食や加工品は高くつくため、多くのビーガンは外食や加工品の購入を控えることで出費を抑えようとする。ビーガンの特権を示すとされる「高いビーガン料理店」は、利用するとしても、大切な友人に会う時のような貴重な機会に訪れるにすぎない。ビーガンの中には低賃金労働に就く人々、複数の障害を抱える人々、多くの機会を奪われてきたサバイバーの人々、他の被差別属性を持つ人々などがいくらでもいる。そうした現実を知らない非ビーガンの人々が「ビーガン生活を実践できる特権」などを語るのは横暴ですらある。マジョリティの差別者はこの不平等社会で自身がいかに多くの特権を独占しているかの自覚もなく、絶えずマイノリティを特権者に仕立て上げてきた。

「わたし動物きらいだもん」という言葉に至っては、怒りに駆られて咄嗟に口を突いた一言だったとしても、言った本人の致命的な差別認識の浅はかさを露呈している。動物の代わりにどんなマイノリティ集団を当てはめてみてもよい。個人的な好悪で道徳的な配慮や包摂の範囲を区切ってよいとでもいうのだろうか。こともあろうにそのような論理をフェミニストが、それも人にものを教える立場の研究者が用いたという事実に愕然とする。差別意識――この場合は種差別(speciesism)のそれ――は人の思考をここまで劣化させる、ということを示す新たな一例に数えられよう。

その他、指摘したい点は多数あるが(とりわけ労働者の自発性に関する無垢な想定や資本主義への無批判な態度など、リベラル・フェミニズム特有の問題点については言い尽くせそうにないが)、論点を増やすことは本稿の目的に照らして適切でない可能性もあるため、各論的批判はひとまずここまでとする。前述したように、こうした問題が交差的な活動方針を公言する組織内で起こったことは驚くべき不名誉というほかない。A氏・B氏が行なったことはビーガンに対する明確な排除であり、その発言はビーガンへの憎悪と種差別に満ち満ちていた。名は伏せてあるが、加害に関与した人物もその関係者も、この文章を読めば自分たちのことを言われていると分かるはずである。深沢さんの意向を超えることかもしれないが、私は加害者が全ての発言を撤回し、自身らの振る舞いについて深沢さんに謝罪し、そのうえで、この組織をビーガンが安心して参加できる包摂的な場所とする旨を宣言してほしいと願う。が、「肉食者の脆弱性(carnist fragility)」とでもいうべきものをいやというほど見てきた者としては、むしろその人々が自分の差別意識を認められず、このうえさらに自己正当化を図ること、あるいはただ黙殺することを予想すべきなのかもしれない。事実、これまでにみてきた非ビーガンの正義論者は全てそうだった。差別問題と闘う人々はしばしば「寝ている子を起こす」必要性などを力説するが、その実、自分もまた「寝ている子」なのだと認めることは絶対にできないのである。差別や特権に向き合うことの難しさはその人々が証明している。このたび深沢さんが書かれたほどの加害を平気で行なった人物らがその例外である、と期待するのはとてつもなく難しい。


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