ガザの猫たち

イスラエルの軍事政策やパレスチナへの暴力については、イギリスの三枚舌外交に始まる歴史的経緯と併せ、何年も前から問題視していたにもかかわらず、今日に至るまで私はこれらに関し、いくつかの署名に協力したほかは、ほとんど何らの取り組みもできていなかった(無論そういうことでいえば、関心を向けていながらもリソースの限界ゆえに手を付けてこられなかった問題はこのほかにも世界に果てしなく存在する)。しかしここしばらくのあいだに批判的動物研究の視点からパレスチナ問題に迫った記事を探していたところ、良質な論考を見つけたので、反戦の議論を深めるための一助となることを願い、以下に全文を訳出することとした。

著者のニーハ・ヴォーラ(Neha Vora)はアラブ首長国連邦のアメリカ大学シャルジャ校に属する人類学者で、移民、ディアスポラ、リベラリズム、アラブ世界の知識生産、人間と人間ならぬ存在の邂逅などを専門領域とする。日本のマルチスピーシーズ研究や人間動物関係学は、政治から距離を置く傾向が強いが、本稿はそのような見かけ上の「中立的態度」をしりぞけ、学問知を政治的介入へと接続している点でも注目に値する。

文中で言及される《ナクバ》とはアラビア語で「惨事」を意味し、とりわけ1948年のイスラエル建国前後にパレスチナ民を襲った虐殺と共同体破壊、およびそれに付随する大規模な土地追放を指す。




ガザの猫たち、あるいは、ナクバが多種混淆の大惨事である理由

ニーハ・ヴォーラ

2023年11月

多くの友人や同僚たちと同じく、私はガザのジャーナリストや写真家や他の人々によるソーシャルメディアでの報告を頼りにしてきた。中には私の生徒かもしれないような若さの人もいるが、その人々は毎日みずからの命を懸けて、大量虐殺がどんなものかをリアルタイムで世界に伝えている。過去数週間に、ガザから届く動画や写真には顕著な傾向が表れたが、それは猫の映像だった。個人や団体が、爆撃を受けて家族を失い外傷を負った猫や、街の破壊を逃れおおせて空き地で腹を空かせる猫などの写真や動画を何度も投稿している。例えば以下の画像もその一枚で、これはこの5月にイスラエルがガザを爆撃した際に撮られた。

猫の投稿は爆撃で生じた瓦礫から人間が猫を救出する様子にも光を当てる。最も新しい投稿は、広く「第二のナクバ」と称される事態の中、子どもたちやペットたちを連れ、わずかな持ち物を携えて北へ逃れるガザの人々をレンズに収めていた。

恐ろしい土地追放の情景に混ざって、子どもたちが猫と遊ぶ動画や、自分の猫が爆撃で同じく被害を受けたと語る子どもたちの動画がみられる――その動画と子どもたちの笑顔は、死と破壊が広がる中、束の間の希望と幸福を覗かせる。

水と食料が不足しているにもかかわらず、ガザの人々はあえて人ならぬ同胞たち――猫、犬、ろば、馬、さらには鳥――に食べものを与え、救いの手を差し伸べる。

医師らは資源が減って自身も爆撃を受けている中、負傷した人々とともに負傷した動物たちの治療にも当たっている。例えば下の猫は人間用の病院で担当者を割り当てられた。

ガザの人々はさらに、家と家族を失っている状況でなお、動物たちを悼み、その死体を気づかっている。先週見た最も悲しい動画の一つでは、悲嘆にくれて泣き止まない少女が、愛するインコの遺体を手にしていた。家を襲った爆撃で命を落としたのだという。24歳の写真家モタズ・アザイアは、何を目にしても涙をこらえて現場の生活を記録してきたが、先ごろ、満足な獣医療を見つけられずに猫を失った。その死を伝える投稿――数千人にリポストされたもの――は、笑顔のアザイアがケブラー社製「報道用」ベストの肩に乗った猫をやさしく撫でている動画で、キャプションには「毎日ひどく力が失われていく」と書かれていた。

本稿を書いている現在までに、15000を超える人命と数知れない人間以外の生命がイスラエルによるガザへの攻撃によって絶やされた。生きている者の多くは両親と家族を失って独り身になった子どもたちである――その飼い猫は残された同胞で、底なしの喪失経験の中、安らぎをもたらしている。下の写真は粉塵に覆われ自力で病院に来た幼い少年が救助した猫とともに写っているもので、この虐殺による子どもたちへの破壊的影響を収め、同時にパレスチナの子どもたちがペットに寄せる大きな愛を示していることから、多くのソーシャルメディア・アカウントによって何度もシェアされた。この写真はさらに、生活世界が破壊される中で人間と人間以外の生きものたちがいかに安らぎと寄り添いを求めて互いを頼りにしているかを物語っている。

私を知っている人であれば、私がこのガザの猫や他の動物たちにまつわる希望と悲嘆に満ちた話をここに再掲しているのも不思議には思わないだろう。私は「猫に夢中な女」を自称し、(先ごろアラブ首長国連邦に拠点を移したので)シャルジャやドバイで出会う野良たちをやしなうために猫の餌を財布に入れて持ち歩く。また、人類学の入門クラスでは猫の話を通して授業を行なう。当初、後者の試みは多くの生徒が必要ゆえに履修する必須科目を面白くするために始めた工夫だった。アメリカの生徒たちは大抵、猫のミームや事例を可愛い、あるいは変わっているとみるのみだったが、アラブ首長国連邦の生徒たち――ほとんどはムスリムのアラブ人やそこで育った南アジア人――にとっては、人間の世界形成物語の中心に猫を据える議論がすんなり理解できるようだった。猫はイスラム教において特別な地位を占める一方、多くの湾岸地帯には野良猫がたくさんいて、住民らは日々、世話や引き取りを行なっている。研究の関心が動物研究や人間と人間以外の親類関係に移ると、私は「猫を通した人類学」の工夫が、実のところ自分の政治的関与と人類学への疑問を反映していることに気づきだした。人類学は奴隷制の暴力や定住植民地主義、集団殺害、環境人種差別、さらに植民地主義的な知のあり方を正しうるものとして人間主義(ヒューマニズム)を支持するが、私にはそれが問題含みではないかという疑問があった。

毎日、私は猫や他の動物とともにいるパレスチナ人の写真や動画が、インスタグラムやTikTokやフェイスブックやその他で新たに投稿され共有されているのを見かける。これらを記録と共有に値する重要な瞬間とみるのは、もちろん私だけではない。写真に付された文の多くは、動物たちを人間の戦争に巻き込まれた罪なき者とすることで共感を喚起しようとしているが、他のそれはパレスチナ人が動物も含む他者に寄り添う様子を示すことで、かれらを――シオニストによって何度も動物と称される人々を――人間化しようと試みる。これらの画像が私に示すのは、パレスチナとパレスチナ民が人間以上だということである。それはこの地の全宇宙を含む――オリーブの木々、水路、ろばたち、伴侶動物たちを。そのかれらが数世紀をかけて培ってきた生のあり方を、シオニストの占有者たちは故意に否定し去ろうとする。人間を土地から隔て、人ならぬ動物たちを移動ルートや食料源から隔てる壁によって。汚水と化学廃棄物による水質汚染と土壌汚染によって。オリーブの木立を薙ぎ払うブルドーザーによって。既存の生態系を損なう非在来種の導入によって。さらにはガザの全生命に対する現在の意図的な追放と殺戮によって。その目的は収奪資本主義の利益を高めることにある――この「戦争」のさなか、イスラエルが数十億ドルの利益を生むと思われるガザ沖天然ガス田の掘削契約を数社の企業に持ちかけていると知っても、何の驚くことがあろうか。

この占領と虐殺を終わらせることに献身する人々の多くは、人間性が潰えていると訴え、世界の指導者たちに停戦を求めることでより良い集合的人間性を発揮するよう呼びかけてきた。しかし私たちは、人間性それ自体も双子の怪物である植民地主義と資本主義の懐で案出された概念だということを忘れている。それは人間以下とみなされた者たちの奴隷化と大量殺戮を正当化し、世界を尽きることなき剰余価値の源泉と位置づけるために利用されてきた。定住植民地主義とアパルトヘイトは統制と非人間化に関わるだけでなく、土地と植物相と動物相の長きにわたる親交と親類関係の破壊にも関わっている。もちろんこれは新しい議論ではない――世界の先住民コミュニティは、土地開発や森林伐採、それに人間と人間以外の伝統的関係の破壊が集団殺害の土台をなす要素であり、さらには現在「人新世」と通称される現象の土台でもある実態を記録してきた(もっとも、ごく最近まで「人新世」の「人」に全ての人間は含まれていなかったが)。人間性は確かに潰えた。なぜなら人間性はそもそもの初めに私たちを今の地点へ導いたものなのだから――その考え方では、土地は財産にすぎず、自然は統制可能なものにすぎず、人格とは変化し続ける定義の中で充分に人間的といえる者のみを指す。

ガザの猫たちは、パレスチナの外傷が多種混淆の外傷であることを教えてくれる。パレスチナ民も人間だという教えではない。それは人間を人間ならぬ存在の対立項として定義する試みの反復だからである。この時、後者は常に排除され侮蔑され、ゆえに切除してよい存在とみなされている。パレスチナの人々とその猫たちが多くの人々を引きつけるのは、おそらく、かれらがリベラルな人間性理解に一石を投じ、それが植民地主義的な世界・人格・自由観の捉え方であることを暴くからに違いない。「人間性」は決して私たちを普遍的な正義や平和へと導かない。1948年以来続くナクバは全生命を攻撃する暴力の構造である――そしてそれゆえにパレスチナ民の多種混淆的世界形成はこの占領に対する抵抗の中核をなす。してみれば、パレスチナ民の生活支援において、私たちは人間性に訴えること、誰が生きるに値するだけの人間性を持つかという議論に頼ることをやめなければならない――共有された人間性の概念を捨て、代わりにラディカルな多種混淆の親類関係を中心に据えた時、占領に対する私たちの抵抗と闘争はどのような形をとるだろうか。

ガザの報道者やパレスチナの動物救助団体のアカウントをフォロー、シェアしてほしい。

以下、少数の例を挙げる。

@byplestia

@motaz_azaiza

@mariam_abu_dagga

@m_abu_samra

@mohammed.h.masri

@sulalaanimalrescue (Gaza-based)

@hot_vet (Nablus-based)

@yespets_rescue (Hebron-based)


元記事リンク:https://allegralaboratory.net/the-cats-of-gaza-or-why-nakba-is-a-multispecies-catastrophe/




【訳者後記】

昨年10月から本年5月までに、ガザの人間死者数は35000人超、人間負傷者数は約80000人に達した(国連人道問題調整事務所の調べより)。 

多くの人命が脅かされている非常時に動物たちの救助を行なう取り組みは、とりわけ外部の支援者たちによってなされる時、人間よりも他の動物を優先する愚行として非難されることが珍しくない。しかし見逃してはならないのは、災禍に見舞われている当事者の人々自身が、しばしば種を超えた助け合いの行動を起こすことである。抑圧と困難の中に生きる人々は、自身の苦しみだけでなく、他者のそれをもなくしたいと願う。パレスチナはこのたびの虐殺が始まった昨年10月よりも以前からイスラエルの不断の脅威にさらされていたが、その中でも動物救助やビーガニズムの普及に努めるパレスチナ動物リーグのような団体が活動を続けてきた。バラディ‐パレスチナ動物救助隊はビーガニズム普及団体ビーガン・イン・パレスチナをつくった。その声明はいう。

ビーガン・イン・パレスチナに属する私たちは、あらゆる生命が尊厳と敬意ある生を生きるに値するとの哲学に則る。私たちはパレスチナ民たる自分たち自身のための正義と平和を信じるが、同時に、この世界を生きのびる権利を求めて闘う他の存在たちのためのそれをも信じる。ビーガニズムは未来であり、私たちはパレスチナ民として、みずからの務めを果たす。

イスラエルの首相や大臣らがガザの人々に対し動物化のレトリックを用いていることにも表れているように、植民地主義や全体主義の暴力、さらにより広く行なわれる命の選別の根底には、「非人間」を倫理的配慮の枠から切り捨てる人間中心主義の論理が働いている。したがって、正義の主唱者たちですら口にする「人間よりも他の動物を優先するのか」という非難や「かれらは人間だ」という主張は、皮肉にもイスラエルの政治家たちと同様の抑圧者思考に陥っている。加害者側の安全圏に暮らす私たちは、非当事者の立場から差別と暴力の論理を再生産することがないよう、この問題を真剣に考えなければならない。

なお、「動物」という言葉の使用については以前の記事でも論じたので、併せて参照されたい。


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ペンと非暴力

翻訳家・井上太一のホームページ

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