書評『ダーウィン事変』


「悪貨は良貨を駆逐する」という現象は多くの分野でみられ、書籍の世界では丹念につくられた良作が往々にして出来の悪い「話題作」の陰に埋もれることがよく起こる。ビーガニズム、動物倫理、人間動物関係などを扱う文献もしかりで、これらの分野にも優れた洞察を含む良書は(初学者の手引きとなる平易な本も含め)いくらか存在するが、多数派に好まれてきたのは一知半解の門外漢がこしらえた残念な代物ばかりだった。本作はまさにそのような悪貨の一枚であり、私は読み始めて何ページも進まないうちにあまりのひどさにめまいを覚え、出版社に抗議文を送ったほどだった。ところがその後、影響力のある人々が積極的に本作を称え、これを動物論としても興味深い物語とみなし、あまつさえビーガニズムの理解にも役立つ作品と吹聴しているさまを見ることとなった。書評の執筆は骨の折れる作業であるため、私はひっきりなしに現れる膨大な堕作(*1)を逐一論評するだけの余裕は持たず、本作についても問題点をメモしたのみでその発表を先送りにしてきたが、ちょうど大きな仕事に一段落が付いたこともあり、再び忙しくなる前に批判をまとめておくのがよかろうと考えた。なお、本作は非ビーガンの読者のみならず、一部のビーガンからも好意的評価を受けているが、これは差別的な価値観を含む娯楽作品が一部の被差別当事者に受け入れられるのと同じことであり、自分たちが毀損されていると認識できないままに人々が毀損される例の一つとみるよりない。そうした不健全な状況に一石を投じることも、この書評を発表する目的の一つである。


動物解放活動の悪魔化

まず、本作を読み始めて早々に呆れたのは、物語冒頭にて「動物解放同盟(ALA)」なるテロリスト組織が研究施設を襲撃する場面が描かれていたことである。これは現実のテロリスト集団(*2)と目される動物解放戦線(ALF)を至極わかりやすく模したパロディであるが、その描かれ方は動物解放の直接行動(direct actions)に対する大衆の偏見をそのまま絵にしたようなものとなっている。すなわち、実際のALFやそれに類する集団・組織は、対人暴力の禁止を大原則としており、これまでに一度の傷害・殺傷事件も起こしていないのに対し、日本人の多くはこれらの活動家が凶悪な「テロリスト行為」におよんでいるとの空想をたくましくしている。すぐれた作家であればこのような偏見を揺るがす物語を描くであろうが、本作は銃を乱射して人々を虐殺する動物解放活動家を描くことで、大衆が抱く偏見に迎合するばかりか、偏見を強化する役割を買って出る。もちろん、読者が現実とフィクションの世界を完全に切り分け、「実際の活動家はこんな人たちではない」と正しい判断ができるのであれば支障ないが、そのためには焦点となっている当のものの実際を人々があらかじめ理解している必要がある。自分が理解していない物事に関し、人々は断片的に伝えられる報道やフィクション作品を通して大雑把なイメージを形成する。そこで伝えられているもの、描かれているものがひどく現実を歪めていようと、現実を知らないことには噓を見抜けない。実際、上記のような「動物解放テロリズム」の空想が世間で幅を利かせているのは、動物解放に携わる活動家をテロリストやその予備軍として表象してきた法人メディアや大衆作品の影響ゆえにほかならない。ポルノグラフィが性玩具としての女性を描き続ければ、全てではないまでも非常に多くの男が現実の女性をそのような存在と見るようになる。それと同じく、偏向報道や大衆作品が社会正義の従事者を悪党や偽善者として描き続ければ、世の多数派は現実の活動家をそのような存在と見るようになる。後述するように、描かれる虚構が多数派の抱く既存の先入観と合致していれば、なおのことその偏見強化作用は強まるだろう。テロリストとしての活動家を描く本作は、動物解放や社会正義全般に対する偏見を助長してきた数多くの媒体の一つとならざるを得ない。


「良いビーガン」と「悪いビーガン」の切り分け

ここで、本書評の読者は反論したくなるかもしれない。「確かにALAの描写はどうかと思うが、『ダーウィン事変』は暴力におよばないビーガンの立場も描いているうえ、登場人物ギルバートの言葉を通して、ビーガニズムとテロリズムの安易な関連づけを批判してもいるのだから、一概にビーガンへの偏見を助長しているともいえないのではないか」と。

もちろん、主人公チャーリーの育ての親であるギルバートが「“ヴィーガンテロ”という言葉の使用は控えてほしい」と主張している場面(第14話)は私の目にも留まっている。しかしそれが何だというのか。作者が描いているのは、テロリストである「悪いビーガン」と平和に暮らす「良いビーガン」がいる世界であり、現実の動物解放に携わる人々、動物解放を支持する人々の主張は、本作において常に「悪いビーガン」の口を通して語られている。ALAのメンバーは現実のソーシャルメディア等で聞かれる草の根の動物解放支持者の声を代弁しつつ、終始悪役として振る舞い、誘拐や大量虐殺などの凶悪犯罪に明け暮れる。するとどうなるか。ALAメンバーが現実の動物解放の主張をなぞればなぞるほど、動物解放とテロリズムは強く紐づけられ、動物解放は反社会的な危険思想に通じているという印象が読者に植え付けられる結果となる。「ビーガン」への偏見は許されないが、「動物解放を支持するビーガン」は社会の敵だというのが、本作全体を通して示されるメッセージである。他方、上述のギルバートはできることなら誰でもビーガンになったほうがよいと考えつつも、他人に意見を求められるまで、その考えを表に出さない(*3)。主人公のチャーリーに至っては倫理や道徳など知ったことではなく、誰がどう生きていようとどうでもよいと考える自由主義の権化のような存在として描かれている。こうして自分の考えを他人に押し付けず、おとなしく野菜を食べて暮らしているのが作者の描く「良いビーガン」である。同じような「良いビーガン」と「悪いビーガン」の切り分けはこれまでにも繰り返し行なわれ、そのたびに非ビーガンから絶大な支持を集めてきた。「ヴィーガン」は何も悪くない、悪いのは「動物愛護過激派」だ、などという言説はその典型といってよい。


このような切り分けはビーガンの口封じ以外の何ものでもない。ビーガンが黙って菜食に励むのは結構、しかし他人にそれを押し付けるな、ということである。性差別、人種差別、障害者差別など、あらゆる人間集団の差別は万人が反対すべきとされるのに対し、種差別だけはビーガンの個々人らが「独りで勝手に」反対していればよく、他人に同じ規範を求めようものなら「押し付け」かつ「ファシズム」かつ「テロリズム」と断罪されなければならない。この見飽きた構図が本作のビーガン分類を形づくっている。そこで存在を容認されているのは単なる「菜食者」であって、政治意識を持つ本来的な意味でのビーガン=脱搾取派ではない。動物解放を主張する脱搾取派は、依然として反社会的勢力と位置づけられる。こうして肉食者の「権利」を否定するビーガンを一貫して悪役に仕立て上げ、多数派の快適ゾーンを守っているからこそ、本作は非ビーガンを中心とする多くの読者に好まれるのだろう。

「良いビーガン」と「悪いビーガン」の切り分けに含まれる問題をよりよく理解するには、これを他のマイノリティに置き換えてみればよい。どこの誰とも知れない漫画家が、野宿者にスポットを当てた漫画作品を発表したとする。作中では善良な市民を殺して金品を盗む「悪い野宿者」の犯罪集団と、その行為に反対する「良い野宿者」が登場する。その場合、この作品は野宿者の生きざまをゆたかに描いているということで高評価に浴するべきなのだろうか。女性スペースに押し入ってシス女性を虐殺する「悪いトランス女性」の集団と、暴力に反対して地味に暮らす「良いトランス女性」を描いたシスジェンダー作家の作品があれば、トランス女性の多面的な姿を生き生きと描いた名作と評されるべきなのだろうか。センシティブな譬えはほかにいくらでも挙げられるが(*4)、良識ある人々はそうした想像に吐き気を催すだろう。それは特定集団の悪魔化であり、大衆の偏見や憎悪感情を強めるヘイトスピーチにほかならない。しかしそのように、他のマイノリティが対象であれば深刻な社会問題にすらなりうるほどのことが、ビーガンに対しては平気で行なわれ、文人や学界人をも含む多数派によって絶賛され、さらにはマンガ大賞にまで輝いているのが日本の現状なのである。『ダーウィン事変』が好評を博している事実そのものに、この社会の差別意識が露骨に映し出されている。


「リアル」なステレオタイプ

作者は本作について「ヒューマンジーという大きな嘘が据えられている分、ほかの部分はリアルに描こうと考えた」と述べているが(*5)、少なくとも動物擁護派のキャラクターに関していえば、実のところ本作に描かれているのは「リアル」ではなく多数派の偏見がつくりあげたステレオタイプにすぎない。そしてそれゆえに、多数派の読者にとってはその姿がむしろ「リアル以上」にリアルな描写に映っているものと思われる。動物解放を叫んでテロ行為におよぶ活動家という設定はその最たるものであるが、研究施設のケージを乱雑に開け放って中の動物を適当に逃がす描写(第1話)なども、実際の動物解放集団が行なう入念なレスキューの様子以上に、読者にとっては「リアル」なのだろう。動物解放に偏見を抱く人々からすれば、現実の「テロリスト」が暴力的衝突を避けて無人の施設に忍び入り、動物たちを傷つけないよう慎重に扱うさまなど、おそらく想像すらできないからである。

第17話に描かれる「プロ市民」としての活動家イメージも、多数派目線からみて実に「リアル」といえる。ALA指導者のマックスによれば、この組織は企業同士の争いを代行しているのだという。ある企業がライバル企業の評判を落とすため、そこで行なわれている非倫理的な動物実験の告発をALAに依頼する。ALA幹部はどちらの企業も非倫理的な動物実験をしていると知っているが、いずれにせよ通報された側の企業が糾弾に値するのは確かなので、「だったら“スポンサー”を得て活動資金を増やした方がいい」という論理のもと、依頼者の求めに応じて襲撃を行なう。要するにALAの掲げる「動物解放」の正義などは単なる建前であって、その実態は企業献金に動かされる操り人形にほかならない。辺野古や高江の米軍基地移設に反対する人々をはじめ、社会正義の従事者を同じような既得権益集団あるいは「プロ市民」とみなす陰謀論が、右翼によって愛好されているのは周知の通りである。社会正義の「偽善」や「欺瞞」を暴くことに無上の喜びを見出す人々は『ダーウィン事変』を読んで我が意を得たりと思うだろう。かたや「ナイーヴな末端メンバーのほとんどはそんなからくり」を知らない者たちであり、ALAは「チンピラとマヌケの巣窟だったわけだ」とマックスは哄笑する。汚い思惑で動く偽善的な組織幹部と、何も知らない愚かな末端の活動家という図式ほど、社会正義に対する世のステレオタイプと合致するイメージもない。ALA幹部のリップマン少佐が米陸軍の元士官という設定(第6話)も、現実の動物解放集団が軍事に反対する左派からなることを思えば考えられないナンセンスであるが、「プロ市民」や「テロリスト」のイメージには合致する。こうして人々の思い描くステレオタイプをもとに世界観を構築すれば、もちろんその作品は多数派の読者にとって「リアル」な装いをまとうはずであり、さらには快楽にすらなるだろう。自分の確信を肯定してくれるもの、聞きたい話をしてくれるものは誰にとっても心地よいからである。しかし動物解放の活動に取り組む現実のビーガンにとって、そのようなステレオタイプを描き広める作品の存在は害悪でしかない。


愚弄される動物解放

ALAが動物解放活動家の声を代弁している以上、その主張が作中でどのように扱われているかを考えないわけにはいかない。結論から言えば、動物解放の主張は本作において一貫して独善と位置づけられている。

ALAの「シンパ」で、のちに銃乱射事件を起こすゲイルは、アンチビーガンとの揉め合いのさなか、チャーリーの姿を認めて叫びだす。「なぜそんなに無関心なフリができるんだ!?……君こそが……声なき動物たちの代弁者じゃ…なかったのか…?……唯一君だけがヒトとヒト以外の動物の間の…真に架け橋となれる存在なのに――――!」。この叫びをチャーリーはあっさり一蹴する。「なんでみんなボクをボク以上の何かだと思うのかなぁ。ボクはなんの代弁者でもない。ただの一匹の動物。ただのチャーリーだよ」。そこでゲイルは虚を突かれたように目を見開き、言葉を失う(第8話)。

ALAメンバーのリップマン少佐も、チャーリーと同じような会話を交わす。少佐は動物搾取がいまや人間の生存環境をも脅かしていると説明し、チャーリーに呼びかける。「お前が世界から苦痛と死を少しでも減らしたいのなら――オレたちと一緒に来い、チャーリー」。それに対し、チャーリーはまたも見下し気味に答える。「人間の言語って汎用性が高いソフトウェアだと思うけど、もし他の“種”が突然英語をしゃべれるようになったとしても、コミュニケーションなんてほとんど成立しないかもね。……ボクはこの世界に対して全然なんの責任も感じない。だって勝手に放り込まれただけだから」。これを聞いて少佐は「――――!」と絶句する(第16話)。

本作は終始この調子なのである。悪役に動物解放や社会正義の理念を語らせ、チャーリーの返答によってそれを無力化する。これを繰り返すことで、本作は執拗に動物解放の「独善性」を強調する。つまり、動物たちはただ生きているだけであって権利や解放など求めていないにもかかわらず、人間たちが勝手に正義だ何だの主張を掲げて動物たちを迷惑な政治ゲームに巻き込んでいる、という諷刺である。動物解放論者はイデオロギーに凝り固まった愚かな連中なので「コミュニケーションなんてほとんど成立しない」。動物の権利の法制化をめざすリナレス議員も、チャーリーを政治目標の「手段」として扱う独善的人物として描かれている(*6)。かたや政治にも動物にも無関心な非ビーガンの一般人は、余計な思い入れで動物に干渉しない分、相対的にまともな人間と位置づけられる。日本の多数派がこれを読んで気持ちよくならないわけがない。何もしないことは、何かをすることよりも素晴らしいのである。

動物たちは権利や解放を求めない、そんな概念を振り回す人間は独善に酔っている、というメッセージには何の新鮮味もない。同じような揶揄は作家や学者によって手を変え品を変え繰り返されてきた。参考までに、動物文学の巨匠として高く評価されている多和田葉子の作品から引用しよう。小説『雪の練習生』には、サーカスで使役されてきたホッキョクグマが登場し、次のようなことを言う。

わたしは、自分に「人権」と縁があるなんて、それまで思ってもみなかった。「人権」などというものはそもそも人間のことしか考えていない人間が考え出した言葉だと思っていたからだ。タンポポに人権はない。ミミズにもない。雨にもない。兎にもない。ところが鯨となると、人権のようなものを持っている。……どうやら人権とは、図体が大きい者の持つ権利らしい。だから、みんなわたしに人権を持たせようとするのかもしれない。何しろわたしたち一族は、肉を食べ、陸に生きる者の中では、一番からだが大きい。(*7)

文学研究者の大原祐治はこの作品について「おのれの勝手な思惑(商業的価値?環境問題?動物の権利?)によって動物を利用する人間たちのありようを冷ややかに眺める」動物たちの姿を描いていると肯定的に評価する(*8)。先ごろ出版された論集『動物×ジェンダー』で、小松原由理は「終始熊目線で語られるこの物語を通して映し出されるのは、動物への振る舞いを通して浮かび上がる人間社会の滑稽さである」と述べ、動物の権利論者を「滑稽」な連中に含めることを憚らない(*9)。こうして作家や学者が一丸となり、動物擁護の運動やより広い社会正義を徹底して愚者の騒ぎとみなし貶めてきたのが日本の伝統である。本作『ダーウィン事変』はそのような歴史の延長上に位置づけられる。


動物搾取の不可視化

先ごろ没した社会学者の立岩真也も、のちに書籍化された連載「人命の特別を言わず*言う」で、動物擁護を愚弄しつつ次のように述べている。「生物を等しく扱うべきである、すくなくとも自らの種以外の種についても生命が尊重されるべきだという考えは、人間が考え出したことであり、人間が言っていることである。他の動物たちがそんなことを言っているという話を知らない」(*10)。私は名のある日本の作家や学者が、何かの一つ覚えのように、こうも使い古された嘲笑を得意になって焼き直しているさまに情けなさすら覚えるのだが、それはさておき、これこそが上でみたように本作『ダーウィン事変』でも繰り返し現れる暗黙の主張である――“動物解放は人間のエゴ、あるいは独善にすぎない”。

バカではないのだから、動物擁護に取り組む人々は無論、動物たち自身が権利や解放の概念を持っていないことは分かっている。現実の動物解放論者が昔から今に至るまで一貫して訴えているのは、権利や解放の概念を知らずとも、動物たちは人間の行ないに苦しみ、その状況から逃れようとしている、その現実を受け止め加害を差し控えることは人間の義務でなければならない、という主張である(*11)。人間であっても権利や解放の概念をはっきり意識しない者、理解しない者はいくらでもいるが、それによってその人々に対する暴力や搾取が許される道理はない。抑圧される当事者たちが声を上げずとも、明白な抑圧があるならそれをなくすべきことに変わりはない。解放とはそのような特定集団への抑圧をなくす努力をいうのであって、私たちがあらゆる他者に負う最低限の義務でしかない。動物解放の場合、当事者である動物たちはもとより人間の思考や言語を持たないので、その運動はほとんど徹頭徹尾、加害者サイドにいる人間たちが行なうこととなるが、みずからの加害を見直すそのような最低限の取り組みをもエゴや独善――あるいは「おのれの勝手な思惑」――とみなすのであれば、それはもはや虐待や搾取の全肯定に等しい。

動物解放を独善と位置づける作品や言説が、そのナンセンスにもかかわらず、こうも量産され世間に通用しているのは、つまるところ動物たちの被害が不可視化されているからである。本作『ダーウィン事変』では、第1話冒頭に動物擁護団体の画像資料を丸写ししたと思しき動物実験施設の様子が描かれていることを除けば、動物搾取の描写がどこにも見当たらない。活動家の暴走ぶりをしつこく描く割に、その動機となっている現実については至極簡単な描写と口頭説明だけで済ませているのである。なるほど動物たちが凄惨な暴力や拷問に苦しんでいるという前提がなければ、活動家は動物たちが望んでもいない正義の概念を勝手にこしらえ、お節介なヒーローを演じているようにしか映らないだろう。そこへ搾取被害者ではないチャーリーが現れ、動物の声を代弁する役として、動物解放などバカらしい、自分はそんなものに何の関心もないと語りだす。アンフェアな手法の畳みかけによって、動物解放は独善にならざるを得ない。比較のために再び多和田作品を顧みれば、その小説に現れるホッキョクグマもまた、なぜか調教による苦痛を何でもないことのように受け流し、なぜか自分を虐待する調教師と親密な関係を築き、そのうえでサーカスに反対する動物の権利運動などナンセンスだと語る。まるで性暴力に喜ぶ女性を描き、フェミニストの「独善」を語らせるようなものである。これらの作家は畢竟、現実に明確な被害を受けている当事者たちを傀儡につくり変え、自分好みの腹話術によって正義を貶めているにすぎない。

動物搾取の隠蔽はさらに、肉食を続ける読者の快適ゾーンを守る役割も果たす。食用とされる動物たちの現実が隠されているかぎり、肉食者は「人畜無害」な人々と表象される。本作ではビーガンに攻撃を向ける肉食者の様子も描かれるが、そのように「一部の」肉食者を悪役として前景化すれば、全ての非ビーガンが負う搾取加担者としての責任は後景化される(*12)。「悪いのはビーガン差別をする一部の肉食者だ」というメッセージは、ビーガン差別をしない肉食者であっても種差別に加担している以上は悪い、という点を曇らせる。その点を曇らせないためには動物搾取の現実を示すことが必要であるが、本作にそのような描写はない。結果、「一部の」悪い肉食者の表象を介し、その他大勢の肉食者は事実上「良いビーガン」と同等かそれ以上の倫理的生活者と位置づけられる。動物解放に取り組むビーガンは最悪の悪党、ビーガンを攻撃する「一部の」肉食者は反面教師、そしてその他の良識ある非ビーガンとおとなしいビーガンは互いの価値観を尊重して暮らす共生者、という構図である。『ダーウィン事変』はどこまでも多数派に寄り添った作品といってよい。非ビーガンの不興を買わないために動物たちの声は初めから奪われているのである。


なぜビーガンは本作を好んだか

少なからぬビーガンが本作を好意的に受け入れているのは、残念ではあるが理解できないことではない。ビーガンは大衆言説において嘲笑と罵倒しか浴びせられてこなかった。自分たちを貶める言葉しか存在しない社会にあって、ともかくも不幸にならず生きていこうと思えば、その環境に適応するしかない。多くのビーガンは著名人らによる愚弄に対してすら「ビーガニズムを広めてくれてありがとう」と礼を返してきた。そうでもしなければ自分たちが貶められたことを実感するだけだからである。フェミニズムの文脈で論じられてきたように、被害者としての自分を認識するのは時につらい作業となる。そうして常時貶められつつ差別的社会に適応してきたビーガンが、多少なりとも自分たちに理解を示しているかのような作品に出会えば、過剰な喜びをあらわにするのは無理もない。味方や理解者を装う者からさりげなく貶められている時、それに気づくのは困難である。ましてそうした者の問題を指摘しようものなら、批判した側が狭量とみなされかねない。

加えてビーガンは自分たちの被害を認識しがたいもう一つの要因を抱えている。すなわち、ビーガンは他のマイノリティ当事者と違い、自分たちの権利や解放ではなく動物たちのそれを求める。ビーガンが第一に問題にするのは種差別であってビーガン差別ではない。肉食中心社会にあってビーガンが周縁化されるのは確かであるが、その問題はビーガニズムの運動において副次的な位置しか占めない。しかも動物たちの被害は筆舌に尽くしがたい凄惨さを呈している。そこに焦点を置いて生きているビーガンが、自分の被害を後回しにすることは容易に起こりうる。露骨なバッシングはノイズとして遠のけるが、婉曲的な攻撃であればそれと気づくことすらないかもしれない。よって、本作のほかにも至極タチの悪いビーガン関連書がビーガンらによって好意的に受け入れられることはあった。

しかしながら、ビーガニズムの毀損はその実践者を貶めるだけでなく、人々をビーガニズムから遠ざける点で動物たちにとっても有害である。したがってビーガンは批判的な目を養い、ビーガニズムが諸々の書き手やメディアによってどのように表象されているかを厳しく監視しなければならない。理解者めいた素振りや中立的にみえる言葉を弄しつつ、ビーガニズムの本質をさりげなくゆがめ貶める言説は今後も現れるだろうが、私たちは多数派から不寛容といわれようと、そのような懐柔をはっきり見抜き、しりぞける必要がある。


結論

動物解放を主張するテロリストたちという、偏見に満ちたステレオタイプを描いた時点で、本作はどのような展開をたどろうと社会正義の従事者やビーガンの悪魔化を助長するヘイト本にしかなりえなかった。テロ行為に反対する「良いビーガン」を描くことは何の補いにもならない。それは当の「良いビーガン」像に収まらないビーガンを「悪いビーガン」のカテゴリーに追いやる効果しか持たないからである。ビーガンの実像をよく知らないままに本作を受容した読者は、おのずと現実のビーガンを本作の二元論図式に当てはめ、気に入らないことを言うビーガンを「ALAみたいな人たち」、つまり「過激派」や「テロリスト予備軍」とみるようになるだろう。そうみられたくないビーガンはせいぜいチャーリーやギルバートのように肉食者の自由な生き方を認め、「独りで勝手に草でも食べて」いなければならない。ひとたび動物搾取への加担をやめよう、種差別をやめようと主張すれば、それは「ALAと同じことを言っている」とみなされる。これがビーガンの口封じ、あるいはトーンポリシングでなくて何なのだろうか。しかもその「悪いビーガン」たちは動物たちのためにもならない独善的な正義に酔い痴れる愚人として描かれている。こうした描写は動物たちに寄り添う思考と実践から人々を遠ざけるものでしかない。本作は動物解放を支持するビーガンのみならず、現実の搾取被害に見舞われている動物たちをも周縁化している。

その他、悪役の親玉に黒人を据えているところといい、リナレス議員の説明を介して動物の権利概念をねじ曲げているところといい(*13)、ここまで多方面にわたり無神経な作品も珍しい。最大公約数の読者に好まれる作品は得てしてくだらないというのが世の習いなのだろうが、それにしても本作のようなものがその差別性や有害性を誰からも指摘されずに好評を博し、あまつさえビーガンについて知るための参考文献のごとくみなされている現実には嘆息を禁じ得ない。何よりがっかりさせられたのは、人権分野の問題を扱ってきた人々、しかも動物論に関心を寄せてそれについての仕事も行なってきた人々が、無邪気に本作を賞讃していることである。某作家に至っては、活動家がテロリストとして描かれているのを理由に「これをおすすめすることに勇気がいる」と述べつつ、そのまま「おすすめ」を続け、本作が「環境人文学の題材にもなると思う」とまで言っていた。腱鞘炎の痛みがひどく、余計な文章を書きたくない私が、わざわざこの長い批判を書いたのも、そうした状況があまりに有害だと感じたからにほかならない。ビーガンや動物の味方らしき振る舞いをしつつ種差別を続ける左翼やリベラルにはとうに愛想が尽きているが、本作の悪質さをも看過するというのであれば、私はそうした人々が人権方面においても当事者を取り巻く問題と真摯に向き合えているのかを疑う。

ビーガニズムや動物倫理については、通りすがりではなく何年もその思索や実践を続けてきたビーガン当事者たちの成果物が存在するのであるから、この方面を学びたいと思った人々にはそうしたものを手に取ってほしい。ましてこれらの領域について何かを語ろうとする者であれば、多数派の快適ゾーンにとどまっているのではなく、努めてそのような成果物を探し、読み、学び続ける姿勢が求められるだろう。『ダーウィン事変』の作者がどのような食生活を送っているかは知らないが、上でみてきたように、その視点はどこまでも肉食者寄りかつ動物解放に対し侮蔑的な位置を離れない。日本の作家でビーガン生活を送り、ビーガンとしての視点から物語を創作している人物を私は一人も知らない。そのような、ビーガンとしての経験を生きてきたこともなく、動物に対する加害者の立場すら捨てない者たちがこしらえた作品ばかりを通し、ビーガニズムや人間動物関係について有意義な洞察を培えると思うのは肉食者の傲りでしかないと私は考えている。


*1 「駄作」の「駄」は荷を運ぶ馬を指し、乗馬に適さない馬であることから「役立たずなもの」を意味するようになったという。したがって差別語を排する意図から、以後、「駄」は別の字に置き換えることとする。


*2 現実の動物解放戦線や地球解放戦線は組織(organization)の形態をとらず、明文化された原則に同意する者たちが各自の意志で活動を展開する。したがってこれらの集団を「組織」と説明する情報源は信頼できないとみてよい。ウィキペディアには前者について「動物の権利を提唱する過激派組織」と書かれているが、こうしたところに、同サイトが学術的文章のレファレンスとなりえない理由の一端が表れている。


*3 そして結局のところ、ギルバートのビーガン講釈も、完璧は無理なのだから「ヴィーガンになったって人を裁く特権が手に入ったりするはずもない」という結論に至り、ALAに対する批判へと摩り替わる。こうして「人を裁く」ビーガンとみなされる人々、すなわち他人の種差別的習慣を批判する人々は再びテロリストと紐づけられ、ありもしない「特権」を振り回す悪人と位置づけられる。


*4 なぜかこうしたセンシティブな例を挙げれば私のほうが悪いことをしているようにみなされるのも当然予想済みである。限界事例をめぐる議論もそうであるように、もともと動物解放論者は、世間一般の人々が動物やビーガンに対してどれだけ差別的な意識を抱いているかを本人らに理解させるために、(遠回しな説明では通じないので)事の本質をえぐり出すセンシティブな譬えを引き合いに出しているのであるが、すると多くの人々は「動物解放論者がマイノリティを差別している」と話を摩り替える。こうして議論の発端をぼかしつつ全ての不正を動物解放論者の責任に帰しておけば、多数派は自身の差別意識を反省しないで済むというわけである。


*5 コミックナタリー編集部「『ダーウィン事変』がマンガ大賞受賞、担当編集『1話を使って拡散してもらえれば』」https://natalie.mu/comic/news/471526(2024年3月23日アクセス)。


*6 他方、リナレス議員はリナレス議員で、動物の権利確立へ向けた取り組みがALAのせいで後退したと語る(第7話)。これもまた、「動物のために」と主張する者が一番動物のためにならないことをしているというありきたりの揶揄の焼き直しでしかない。そして、同じく「独善」で動く動物擁護派の中でも、議員のような高い地位にいる人々ではなく、草の根の活動家こそが最も愚かなことをしているとみなされるのも定番の構図である。


*7 多和田葉子(2013)『雪の練習生』新潮文庫、p.71。


*8 大原祐治(2017)「文字を『書く』ことの『不自然』さについて―多和田葉子『雪の練習生』論―」『人文研究』46号、p.27、http://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/102532/S03862097-46-P001-OHA.pdf(2024年4月2日アクセス)。


*9 小松原由理(2024)「多和田葉子の動物演劇の試み――『夜ヒカル鶴の仮面』から『動物たちのバベル』へ」村井まや子+熊谷謙介編著『動物×ジェンダー――マルチスピーシーズ物語の森へ』青弓社所収、p.53。

なお、私は同論集を通読していないが、村井まや子と熊谷謙介の「序文」を読んだところ、スナウラ・テイラーの著作に触れた箇所で「この本には、『動物の権利』(一九七五年)という書名のとおり動物の権利を主張する一方で障害者の生の質は低いという発言を繰り返すピーター・シンガーとの議論も含まれている」という記述があった(p.24)。シンガーの著作は『動物の解放』であること、シンガーは動物の権利を主張していないこと、「障害者の生の質は低い」などと雑な話をしていないことなど、わずか一文にこれほど致命的な間違いが含まれているのは驚愕というよりない。


*10 立岩真也(2022)「連載『人命の特別を言わず*言う』第2回、公開します」

https://note.com/rensai2022_01/n/n5d0780eee9a1(2024年3月25日アクセス)。


*11 「動物は苦しんでいるのか、逃れたいと思っているのか、それこそが独りよがりな想像ではないか」という反論がいまだに通用すると信じている者が後を絶たないことは、教育の失敗というよりない。動物たちが苦しまないのであれば、動物利用者が電気ショックや殴打やその他万般の暴力と拷問によって動物たちをコントロールしようと目論む理由が説明できない。動物たちが人間の抑圧から逃れようとしないのであれば、屠殺場や動物園や実験施設に拘束具はいらない。動物たちに注射を打つ時、電気を浴びせる時、その喉にチューブを押し込む時、その眉間に銃弾を撃ち込む時、彼女ら彼らを身動きできないよう抑え込むのは、動物たちが苦しみ、恐れ、逃げようとするからである。時に動物たちは人間の想像力の限りを凝らした拘束・監禁・収容装置を逃れ、外の世界へ脱走することもある。動物たちが人間の加害から自由になりたいと願っているのは観察可能な事実であって独りよがりな想像ではない。


*12 しかもその悪い肉食者たちですら、ほとんどはALAに対する反発からビーガンを憎悪するに至っている。諸悪の根源は一貫して動物解放に取り組む活動家に帰せられる。言い換えれば、活動家は「(ビーガンも含む)みんなに迷惑をかけている」わけである。


*13 リナレス議員はチャーリーに必要な動物の権利が「生存権、参政権、労働基本権に医療や福祉を受ける権利」を含むと語るが(第7話)、こうした描写は動物の権利論者が現にそのような主張をしている(動物の参政権等々を求めている)と誤認されている日本においてさらに藁人形の肥大化を促しかねない。本当の動物の権利概念に関する正しい説明が作中で行なわれていないのでなおさらである。


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