書評『聖なるズー』追記

リソースの限界により遅くなってしまったが、かつて執筆した『聖なるズー』の書評に追記を加える必要が生じたので、ここにそれをまとめることとした。

上記の書評を発表して1年と数カ月が過ぎた2023年夏、反差別コミュニティの先鋭化した人々のあいだで「ペドフィリア差別に反対します」という主張が広められ、その流れで「ズーフィリア差別に反対します」との主張も唱えられた。かような事態が起こるとは、書評執筆時には全く予想できなかったことである。発信者らによれば、小児欲情者(ペドファイル)と小児性加害者(チャイルドマレスター)は同一ではなく、小児への欲情そのものは問題視されるべきではないという考え方が当の主張を支えている。これは動物性愛者と獣姦者を分ける『聖なるズー』の議論と同様の論理にもとづいている。

書評中の一節「ズーについての感想」で述べたように、私は動物の性的欲求に人間が応えようとすること自体は、理論的には虐待に当たらないと考える(*1)。ただし、これまた書評で述べたように、動物の性的欲求に応えることと動物を性的に愛することは違う。人間の側が動物に欲情すれば、動物の求めに応じる性行為と人間の欲望を満たすそれとの境は曖昧になり、権力を握る人間の恣意的判断によって容易に後者の性行為(人間の欲望充足)が前者の論理(「私は動物の求めに応じている」という思考)によって正当化される結果となりかねない。ズーを自認する者たち自身も、みずからの欲望充足を優先しつつ、意識のうえでは動物の求めに応じているという誤った自覚を持つことは充分にありえるだろう。ズーたちの語る動物性愛について、「実践に移した時に矛盾や弊害が生じうる」と述べたのはそのことを指す。してみれば、ズーを美化する『聖なるズー』の著者が、パッシブ・パート(動物の男性器を受け入れる人々)の記述に大半を割き、アクティブ・パート(動物にみずからの男性器を挿入する人々)の記述を至極簡素に済ませているのは実に象徴的といえる。人間側の積極的な欲情を伴うであろうアクティブ・パートは、獣姦者と事実上同化するからである。もちろんそのようなセクシュアリティの存在が正当化されることはありえない。

なお、小児欲情者に関しては、「小児の性的欲求」に応えているのでもなく、一方的に小児を性的客体とみているにすぎない。そのセクシュアリティは小児の非人間化に支えられた欲望であり、存在そのものが加害的である。したがって小児欲情者と小児性加害者の区別などというものは意味をなさず、「ペドフィリア差別」なる概念は「加害者差別」や「抑圧者差別」を語るのと同程度のナンセンスであるといわざるを得ない。いかなる社会運動も迷走することはあるが、ペドフィリア差別反対を掲げたコミュニティはその差別理解に深刻な問題を抱えていると思われる。




*1 そもそも同種のパートナーを見つけられない環境に動物を置くことが抑圧的であるが、それはペット産業やその需要を支えるペット消費者らの問題であってズーたちの問題ではない。


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