『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』の翻訳問題
先ごろ、平凡社からローリー・グルーエンの編著『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』が出版された。海外に比べて非常に遅まきではあったが、ようやく日本でも動物倫理や動物研究の関連書が増えてきたため、そろそろこの分野の基本用語を整理・解説した事典的なものが出版されたらよい時期でもあった。そんな矢先に本訳書(以下、本書)が登場した。私もこの原書を数年前に入手して以来、折に触れ参照している。寄稿者の顔ぶれもよく、論考の内容も(やや不満なものはあるが)総じて水準が高く、日本で知られていない文献も多数紹介されているので、邦訳されるにふさわしい一冊であったことは間違いない。また、このように複数の執筆者が手掛けた大部の論集ないしアンソロジーは、在野の人間である私の力では翻訳をしようにも出版企画を通すのが難しいので(それができるなら翻訳したい文献はいくらでもある)、その意味からしても本書が邦訳されたことには素直な喜びを表したかった。
ところが、書店サイトで本書の目次を読んだ際に目を疑うような誤りを見つけ、その後、グーグル・ブックスで本文の一部を閲覧して甚だしい問題を多数発見したため、急遽全文を確認する運びとなった。結論から述べれば、本書は学術専門書としてあるまじきレベルの不備をあまりに多く含んでいる点から、いわゆる粗悪翻訳に属するものといわざるを得ない。一段落全体、さらには一章全体の訳し直しを要する問題すら見つかった。権威ある大学研究者が監訳した文献ということで、本書が教育・研究の場で広く使用されることになれば、動物研究に関する混乱が今以上に広まる恐れが大きい。在野の身分ながら、この分野を長く手がけてきた者として体系的な批判をまとめておく必要を感じた。以下ではまず、全編に関わる主要な問題点を整理し、続いて各所にみられる問題含みの訳語と訳文を検証する。誤訳は翻訳に付きものであるという遺憾な事実を念頭に、単純な誤りをあげつらうことは控え(それも非常に多いのだが)、ここではあくまで学術的観点から問題となる点を取り上げることに努めた。
なお、本稿では論争の余地がない決定的な誤りと、やや論争の余地がある表現の双方を指摘する。そのため、以下の批判の一部に賛同しかねる人はいるかもしれないが、学問に誠実であろうとするなら、そのような部分的異論をもとに、本稿全体を単なる「一つの意見」として矮小化・無効化することは避けてほしい。
批判を始めるに当たり、表記について一言しておきたい。本書では( )[ ]〔 〕〈 〉などの記号が使用されているので、以下、ルビが振られた箇所を引用する際はこれらとの混同を避けるために【 】を使用し、
ルビ【ルビ付きの言葉】
の形で表記する。例えば「動物」に「アニマル」のルビが振られていた場合は、
アニマル【動物】
の表記を用いる。
総論的問題
訳語の不統一
本書の大きな問題は、一つの用語に複数の訳語が当てられている一方、一つの訳語が複数の用語を指して用いられている点である。無論、言語は一対一に対応するものではないのだから、翻訳では同じ単語を様々に訳し分けることも、逆に複数の単語を一つの訳語で言い表すこともある。例えば英語のyouは「君」にも「あなた」にもなり、childとkidはどちらも「子ども」と訳しうる。しかしながら、特定分野の用語についてはなるべく訳語を統一し、類似する意味を持つ用語群があれば訳出上でもそれぞれ区別して混乱と混同を防ぐのが原則だろう。まして本書のような一学問分野の用語集であれば、そのような統一と区別はなおさら重要なはずである。が、本書では後により詳しく見るように、動物研究の基本語であり意味的にも一貫性を持つ言葉――personやnonhuman animalsやanimal advocacyなど――ですら訳語が統一されていない。細かいことをいえば「工場式畜産」と「工場畜産」の統一なども行なわれていない。かたや「家畜」という訳語がlivestockにもdomestic animalsにもfarmed animalsにも使われ、「人間性」という訳語がhumanityにもhuman natureにも、あろうことかpersonhoodにも使われている(原語は全て違う含みを持ち、区別して使われているにもかかわらず)。しかもそれは異なる訳者が手がけた異なる章ごとの違いであるだけでなく、一人の訳者が手がけた一つの章の中にすら見られる揺らぎなのである。
本書で解説されているrepresentationのように、もとより多義的な意味で用いられる用語についてはある程度の訳し分けも致し方ない。しかし本書における訳語の不統一は原語の多義性に帰せられる範囲を遥かに超えており、単に用語の整理をしていないがゆえの無秩序と考えるほかない。監訳者はあとがきにおいて、訳語の「多様性」を尊重したと述べているが、これは率直なところ、仕事を手抜いたことの言い訳にしか思えない。一学問分野のレファレンスとなるべき事典や用語集において、原語と訳語の対応がこれほどまでに破綻していては、読者が混乱するだけである。時に全く違う言葉が同じ概念を指し、時に同じ言葉が全く違う概念を指すことが、どうすれば本書を手にする専門外の人々に分かるのか。索引では見出し語の横に原語を付し、多少の混乱防止が試みられているが、そこから漏れ落ちている言葉もあり、英語から訳語のバリエーションを調べることもできないので、問題解決に役立っているとは思えない。
続いて本書全体に関わる重要概念の問題を見ていきたい。
屠殺の抹消
動物研究の文献としては考えられないことであるが、本書には「屠殺」という言葉が一度も出てこない。もちろん英語の原書には「屠殺」を意味するslaughterという語がそこかしこに頻出するが、邦訳ではその全てが「殺処理」「食肉処理」さらには「処理」と訳されている。動物研究では屠殺を「食肉処理」(meatpacking)のような婉曲語に置き換え、動物殺しの現実を覆い隠す欺瞞が多数の論者によって繰り返し批判されてきたが、皮肉なことに、本書は動物研究の事典でありながらまさにこの欺瞞を訳文の上で踏襲してしまっている。原著者らがこの事実を知れば激怒もしくは落胆するだろう。
もっとも、こうした言語操作は本書だけの問題ではない。「屠殺」を「と畜」「解体」「食肉処理」などと言い換える習慣は日本の出版物に深く根を下ろしている。先ごろ明石書店から出版された『暴力のエスノグラフィー』においては、原語のkillという言葉が「屠る」「命を奪う」などと婉曲的に訳され、「殺す」という直接的な表現は「殺される牛」のように、殺す主体を曖昧にした受身形でしか使われていなかった(この訳し分けは一貫しているので、訳者はおそらく意図的にそうしている)。人間が動物を殺すという現実は、日本においてここまで希釈されるのである。本書『アニマル・スタディーズ』における「屠殺」の抹消も、暗黙の種差別バイアスによるものという点で同様の事例に数えられる。日本に輸入された学問は往々にして政治色を抜き去られ、象牙の塔の賞玩物と化すが、暴力の語彙を消し去る言語操作もそのような脱政治化に大いに貢献してきたことは疑えない。
「屠殺」は差別用語だという指摘もあるが、このきわめてあやしい主張にしたがった場合、不可視化されるのは食用のために殺される動物たちの境遇である。世界人口の10倍を超える動物たちが毎年食用のために殺されている現状にあって、屠殺の現実にすら向き合えない、それどころか「屠殺」という言葉を使うことすらできない動物研究に、何の存在意義があるというのだろうか。
なお、ややこしいことに、索引には産業的屠殺場(industrial slaughterhouse)を表す「食肉処理場」の項目がある一方、屠殺場(slaughterhouse)を表す「食肉処理場」の項目はない。したがって後者の用例(p.91,204,593など)を索引から探すことはできなくなっている。「殺処理」「食肉処理」「処理」の項目は索引に含まれていない。
動物愛護とは何か
本書では「動物愛護」やそれに類する語が不用意に用いられている。しかしヴィーガンや動物倫理の研究者ならば誰でも知っているように、動物愛護は日本独自の極めて特殊な概念であり、主として犬や猫を保護する草の根活動のたぐいを指す。それは欧米圏で生まれた動物福祉、動物解放、動物の権利、あるいはその総称である動物擁護のいずれとも違う。時には英語文脈の中でも「動物愛護」という訳語がうまく当てはまる場合もあり、例として本書p.344のそれがある。この「動物愛護」は「動物のやさしい扱い(the kind treatment of animals)」を指し、公文書の中で使われていることからしても、このままで問題ないだろう(あいにくこの用例は索引に収録されていないが)。しかしこうした特殊ケースを除いて「動物愛護」が使える文脈は少ない。例えばp.75では「動物〔愛護〕運動」と、わざわざ訳注で「愛護」を補っているが、これは全くの蛇足である。P.679の「アニマル・アクディヴィズム【動物愛護運動】」も、「動物活動」または「動物擁護活動」と訳したい。
最悪なのはwelfarism(福祉主義)を「動物愛護主義」と訳していることである(p.38,39,51)。福祉主義と動物愛護は全く違うどころか、しばしば西洋的な動物保護思想と日本的なそれの違いを示す対立項として扱われる(佐藤衆介氏や伊勢田哲治氏の諸論考を参照されたい)。まずいことに、この訳語が現れるのはゲイリー・フランシオンの哲学を解説している箇所であり、フランシオンは福祉主義や新福祉主義といわれる立場の批判者として広く知られている。動物倫理の哲学を学んでいる活動家や研究者の中で、フランシオンが「動物愛護主義」に反対しているなどと理解している者は誰もいない(ちなみにサンスティン+ヌスバウム編『動物の権利』のフランシオン論文にも「動物愛護の原理」なる訳語が現れるが、これは「人道的扱いの原則」の間違いである)。事典・用語集の本書がこのような過ちによって概念の混乱をもたらしているのは遺憾というよりない。
動物福祉くらいは日本語で正しく
福祉主義と動物愛護の混同にも関わる問題として、本書はなぜかanimal welfareと「動物福祉」を対応させることができていない。例えば第29章では一貫して「アニマル・ウェルフェア」という片仮名語が用いられているが、p.733で唐突に「動物福祉」という言葉が現れる。原書によればこれはwell-being(幸福)であるが、「動物福祉」と訳されていることで「アニマル・ウェルフェア」との混同が起こる(すぐ後に「ウェルビーイング」という片仮名語が現れるが、それとこの「動物福祉」が同じであることを日本語読者が知るのは不可能である)。なお、索引の「動物福祉」にこのp.733の用例は拾われていない。
また、同じ章の訳注では、welfareの訳語として「『福祉』か『福利』か、あるいはその両方か、議論が分かれるところである」と書かれているが、議論はもはや分かれておらず、動物倫理におけるwelfareは「福祉」と決まっている。
第22章では「動物福利」という訳語が用いられ、理由として伊勢田哲治氏の著書『動物からの倫理学入門』にしたがった次第が述べられているが(p.576)、伊勢田氏のいう「福利」はwell-beingであってwelfareではない。そもそも、氏の新しい著書や論文でも、ここ数年のあいだに刊行された主要な動物倫理の関連文献でも、一貫して「動物福祉」が用いられているというのに、なぜわざわざこの分野の研究が未発達だった10年以上も前の著作に範をとろうとしたのだろうか。
人格と物件
本書の目次を眺めて目を疑ったのは、第18章のタイトルPersonhoodが「人間性」と訳されていたことである。動物倫理の文脈では一貫して、personが「人格」の意で用いられ、「物件」(thing)と対立項に置かれる。人格とは権利主体を指し、他者の財産とされる物件とは異なる存在であることを意味する。動物倫理の議論では、そのような権利主体が必ずしも「人間性」をそなえている必要はないということが言われてきた(詳しくはフランシオン『動物の権利入門』を参照)。つまり人格と人間性は異なる概念であり、この両者を明確に区別することが動物倫理における一つの重要な争点だったのである。
この大前提を理解せず、personの第一義を「人」「人間」と捉えているために、第18章は全体が不条理な怪文と化してしまっている。
関知する能力を持つイヌもパーソン【人】でありうるとロックはほのめかす(p.463)
ロックにとって……〈パーソナル・アイデンティティ【人物同一性】〉やパーソンフッド【人間性】は人間と人間以外の動物たちによって共有されるものでもあった(p.463)
すべてのヒューマン【人間】がパーソン【人】というわけではなく、人間以外のものが同じように人として「呼ばれる」可能性もまた開かれている(p.464)
ルビを振っていても、パーソンを「人」の意味で捉えてしまうと上の文は何を言っているか分からない。犬が「人」である、すべての人間が「人」ではない、というのはナンセンスである。一般の読者は、犬が人なわけはなく、逆にすべての人間は人に決まっている、と考えるだろう。「人物同一性」や「人間性」が人間以外の動物たちに共有されているという説明も、悪い擬人化の一種に思われる。パーソンを法的・道徳的カテゴリーの「人格」と捉えていれば、これらの混乱は生じえない。
〈人間性〉という用語は、それを通して人間が奴隷になったり、幽霊が人間になったり、あるいは生物学的には生きているものが法律的には死物になったりする用語へと変容をとげる(p.465)
これもまた、人格性を付与されるか否かで人間が奴隷になったり、幽霊が人格になったり、生きているものが死物扱いされたりすると言えば筋が通る。「人間性」を通して幽霊が「人間」になる、というのでは、まるで何かの魔法によって幽霊が肉体を得るという話のように思えてしまう。すぐ前に「法とは合法的かつ魔術的な(権)力を通して人間性を変化させ、否定し、授けるものである」という謎めいた文があるのでなおのこと誤解が深まる。
さらにまずいのは、「人間性」という訳語が災いして、動物の権利論に関する誤解が深まる事態である。
もし人間以外の動物たちが人間性を所有しているのなら、彼らには、それと関連する諸権利もまた賦与される(p.469)
実際のところ、動物の権利論は人間以外の動物に「人間性」が備わっているか、などということを議論してはいない。動物の権利論がその誕生当初から問題にしてきたのは、人間以外の動物が法的・道徳的な「人格」といえるか(人格性を持っているか)である。この決定的な違いを理解していないがために、日本ではしばしば「動物の権利論者は人間に近い動物だけを守ろうとしている」といった的外れな批判と嘲笑が繰り返されてきた。本書は「人格」と訳すべき箇所を「人間性」と訳すことで、この誤解をさらに深め広めるおそれがある。
「リーガル・パーソン【法的な人】」(p.468)は「法人格」と訳さねばならない。この段落は全体的に日本語として意味が通じなくなっている。
「人と物」(p.462)「人と事物」(p.464)「人間と事物」(p.466)などは「人格と物件」である。ただし紛らわしいことに、p.462に現れるルビ付きの「もの【事物】」はsomething、p.464の「神は思考原理を事物に付加することもできるのだ」の「事物」はmatterである。哲学用語としてのmatterは「物質」であり、すぐ後では「マター【物質】」と正しく訳してあるが、なぜこの部分は「事物」と訳してしまったのだろうか。
総合すると、第18章は訳語の混乱が甚だしく、論考としても解説としても破綻を来しているので、章全体を訳し直す必要がある。なお、私はこの問題に関し、(担当訳者よりも)訳文の確認と訂正を怠った監訳者の責任を問いたい。
他の章でも、personを「人格」と訳していない箇所は修正を要する。P.41にはフランシオン著作からの引用として「ヒューマン【人間】をパーソン【人格をもつ人間】という集合からすっかり除外している」との記述があるが、フランシオンはpersonが「人間」でないことを著作の中で何度も強調しているので、これなどは非常に不適切な訳文である。また先述したように、本書では「人間性」がpersonhoodだけでなくhumanityやhuman natureの訳語としても用いられており、本文を読みながら逐一索引を見て区別するのでもないかぎり、文中の「人間性」が何を指しているのか判断できない。専門書の中で鍵概念がこれほど好い加減に扱われている事例は見たことがない。
批評か批判か
文学研究の関係者が手がけているせいか、本書ではcritical(批判的;重要な;決定的な)という語を「批評的」という意味に捉えている箇所が目立ったが、これにも首をかしげざるを得ない。例えばcritical termsは「重要語」という意味が第一義であるが、監訳者はこれを「批評用語」と捉えている(p.25)。ここではcritical termsという言葉を「〈アニマル・スタディーズ〉において提起される概念的諸問題を解決するのに役立つ道具」と定義しているので、「批評用語」でもよいのかもしれないが、動物研究は人間動物関係の現状に一石を投じる「批判的」性質の強い学なので、「批評」よりも「批判」という語を用いたほうが妥当と考えられる。「批評」というと、日本の批評文化がそうであることから、現実世界の問題を脇に置いて美術や文芸などを論じる暢気な営みの印象を受ける。
この「批評」という言葉の違和感は、ヴィーガニズムを論じるくだりで一層鮮明になる。
ヴィーガニズムを批評方法――別の視点から/差異をともなって考える方法――として理解するのは、倫理として、政治として、実践としてのヴィーガニズムの目標達成に必須のことなのである。……ヴィーガンの批評的姿勢が他の社会批評や文化批評の形式と交差していったことにより、人間‐動物関係に関する私たちの理解を高めてくれる新しい語彙や新しい概念上の観点が生まれるようになった(p.691)
倫理・政治・実践としてのヴィーガニズムが必要としているのは「批評方法」としての自己認識ではなく、「批判の方法」としてのそれだろう。つまり現状に批判的な目を向けるという意味である(なお、「別の視点から/差異をともなって考える方法」は、原文ではa way of thinking differentlyであり、「異なる思考の方法」とでも訳したほうがよい)。また、ヴィーガニズムの「批判的」姿勢は社会批評や文化批評と交差してきたのではなく、社会批判や文化批判と交差してきた。揚げ足取りのようだが、批評と批判では意味するものが違う。例えば多くのヴィーガンが携わってきた反資本主義の行動は社会批判であって社会批評ではない。フェミニストのヴィーガン団体が取り組んできた家父長制や異性愛規範への対抗実践は文化批判であって文化批評ではない。
思うに、このような批判と批評の摩り替え(あるいは取り違え)もまた、アカデミズムに根付いている「政治なき研究」姿勢の表れなのではないか。監訳者あとがきにもあるように、動物研究は理論と実践の統合をめざしているが(p.750)、社会の改善や転覆を求める批判の営みを「批評」へと落とし込んでしまう日本の学者は、むしろ理論と実践、学問と政治の分断を深めているように思える。おかしな訳語を用いることで元の概念(さらには理念)をゆがめないよう、翻訳を手がける者は言葉の選び方に細心の注意を払ってほしい。
なお、「批評理論」(p.280, 687)は「批判理論」と訳さねばならない。両者は全く別の理論を指す。
P.683ではcriticalという語を「批評的」と解釈したせいで誤りが生じている。
ヴィーガニズムは、白人特権階級によって専有的に実践されるプロジェクトとして成立したのではないかという点で批判を招くことが実に多かった……。たとえば……A・ブリーズ・ハーパーが指摘したように、ヴィーガニズムに対するこうした批判的表象によって、有色人種のヴィーガン体験が批評の場から排除されるということが起きたのだ。(p.683)
「批判的表象によって……批評の場から排除される」というくだりは何のことか分からない。2文目を正しく訳すと「たとえば……A・ブリーズ・ハーパーは、このようなヴィーガニズムの描き方が有色人種のヴィーガン体験を決定的に抹消することになったと指摘する」となる。
反応と応答は違う
本書では「応答」と訳すべきところを「反応」と訳している箇所が目立った(p.200, 235, 206, 704)。本書の第7章でも説明されているように(p.200)、動物研究では意図を伴う「応答」(response)と、機械的な「反応」(reaction)の違いが、主体とそうでないものを分かつ点で重要な意味を持つ。デリダもハラウェイも、動物がただ「反応」するだけの存在ではなく、主体性をもって「応答」する存在なのだという議論を行なってきた。もちろんその議論を踏まえるポストヒューマニストやフェミニストの動物研究者も「応答」と「反応」を区別する。「全力というより総力を挙げて」「一からではなくゼロから」などはくだらない言葉遊びであるが、「応答」と「反応」の使い分けは言葉遊びではない。
Humaneは「人道的」
英語のhumaneに「慈悲深い」という意味があるのは確かだが、動物倫理や動物研究の文脈ではこの言葉を「人道的」と訳す。The Humane Society of the United Statesは「全米人道協会」、the Humane Slaughter Actは「人道的屠殺法」、humane treatmentは「人道的扱い」である。「人道的」は定義のはっきりしている用語であり、動物福祉に則ることを意味する。したがって「無痛殺処理法」(p.349)「ヒューメイン・メソッズ【慈悲深い方法】」(ibid.)「『慈悲深い』扱い」(p.473)「動物は慈悲深く扱われるべき」(p.725)「慈悲深い処遇」(ibid.)「ヒューメイン・スローター【安楽死のような処理】」(p.681)等々は修正を要する。
Sentienceは「感覚」ではない
動物倫理や動物研究のキーワードであるsentienceはどう訳すか悩ましい言葉である。古い既存訳としては「有感性」があり、私は「情感」と訳してきたが、いずれも適訳とはいいがたい。したがってこの単語については新しい訳語を考える余地がある。個人的には第18章の訳者が考案したと思しき「センシェンス【感じる力】」(p.470)がよいと思った。
一方、「感覚」や「有感覚」「感覚があること」「感覚がある状態」などの訳語は問題がある。というのも、いくつかの情報源を総合するに、sentienceは感覚(sensationないしsense)で得た情報を意識的・主観的に経験する自覚能力を意味するからである。本書では「感覚」がsensation, sensory, senseの意味で用いられている箇所が多数あり(p.405-6, 425-6, 437, 444-5, 635, 716など)、sentienceを意味する「感覚」との混同が起こっている。
また、いかにsentienceが訳しにくい概念であろうと、本書はあまりに訳語の無秩序が過ぎると感じた。「感覚」関連のバリエーションだけでも多いが、p.103では「センシェンス【知覚】」という訳語が現れる。ところがp.249, 405ではperceptionの意味で「知覚」が用いられ、p.416, 437ではsensoryの意味で、p.461ではawarenessの意味で同じ言葉が用いられている。かたやsentienceの訳語には「センシェンス【痛みの感覚】」(p.45)や「意識」(p.703)もあり、一つの章の中でも訳語がさまざまに変化していくので、sentienceという概念の統一性は本書において完全に失われている。やはり類似概念から区別されるsentienceの一貫した訳語を検討する必要があったのではないか。
なお、p.563でようやく既存訳にのっとる「センシェンス【有感性】」が現れるが、さまざまなsentienceの訳語を収録した索引に、この「有感性」が収録されていないのは皮肉といわねばならない。
Vulnerabilityは「傷つきやすさ」か
広義の「脆弱性」を意味するvulnerabilityが「傷つきやすさ」あるいは「傷つけられやすさ」とも訳されることは承知しているが、これは非常に語弊が大きな訳語と思えてならない。危害や危険に対して脆弱である状態/守られていない状態と、傷つきやすいこととは、多くの場合、イコールにならない。
人間との独特な関係の中で――農業・医学・象徴・感情の素材として――動物たちはそれぞれ特有なかたちで傷つきやすくなる。(p.699)
人間との関わりにおけるそのほぼすべての事例において、動物は尋常ではないほど(けれどもごくありきたりなかたちで)傷つきやすい(p.717)
Vulnerabilityないしその形容詞であるvulnerableという英語特有のニュアンスを知らない読者がこうした記述を読めば、動物たちは物理的な負傷を被りやすいという意味に取るであろうし、下手をすると心が傷つきやすいという意味に取るかもしれない(本章の議論を注意深く追ったとしても)。もう一つの定訳にのっとり「脆弱になる」と訳せばこのような語弊は生じない。
また、p.715の「傷ついた」はwounded、「傷つけられた状態」はwoundednessであり、文字通り傷がついていることを意味するが、これをvulnerableと区別するのは難しい。
全編にみられるその他の問題
こまごまとした(しかし重大な)個々の訳語や訳文の問題については後ほど検証するとして、先に本書の全編にみられる他の些末な問題も列挙しておきたい。
まず、初めにパラパラとページをめくって驚いたのが片仮名ルビの異常な多さだった。先のrepresentationや「テラー【恐怖】よりもホラー【悲惨】である」(p.709)のように、多義的な言葉や洒落を訳す際に用いるならばともかく、「視点」に「パースペクティブ」、「戦略」に「ストラテジー」、「傾向」に「ディスポジション」、「始まり」に「ビギニング」、「本物の」に「リアル」、あげく「動物倫理」に「アニマル・エシックス」などのルビを振ることが本当に必要だろうか。なるほどパースペクティブやディスポジションといった言葉は現代思想の用語としても使われるが、本書では全くそのような特殊文脈にもとづかないと思える箇所でさえ、無駄に多くのルビが濫用されている。これは読者の思考を中断する点で読みにくさを増すだけでなく、用語でないものを用語に見せかけ、本筋を離れたところでいたずらな深読みを促す効果がある。しかも皮肉なことに、用語でないものが用語のように浮き上がるせいで、本来の用語(「センシェンス」など)が、ルビを振られた数ある語句の一つとして全体の中に埋もれてしまう。加えて、同じ言葉に違うルビが振られている箇所と、同じルビが違う言葉に振られている箇所とが混在しているせいで、余計に混乱が起きやすくなっている。理解を促す、あるいは深めるために用いられるはずのルビが、かえって読者の理解を妨げているのでは本末転倒というよりない。
次に、本書では大文字で始まる単語や語句、ならびにイタリックの単語や語句を機械的に〈 〉で括っているが、原著者が強調するキーワードならばともかく、歴史的事件の名称や団体名、法律名、学名、判例名などまで同じく〈 〉で括るのは違和感を覚える。これらは慣習的に頭文字を大文字にしたり、イタリックで書き表したりするものであって、そこに強調の意図はない。〈仙骨〉(p.37)や〈ショウジョウバエ〉(p.440)が、まさか強調語句だとでも思ったのだろうか。P.466の〈野生動物〉は意味深だが、原書をみると単にferae naturaeというラテン語をイタリックにしているだけなので、これも強調とは違う。〈動物福祉法〉(p.473)や〈産業革命〉(p.581)の〈 〉も不要であり、Global Northを意味する〈ノース〉(p.585-6)も〈 〉なしの「北側諸国」でよい。
第三に、これは是非の分かれるところであろうが、animal studiesを「動物研究」、animal welfareを「動物福祉」と訳さず、あえて「アニマル・スタディーズ」「アニマル・ウェルフェア」などと片仮名語で言い表すことには、何か特別な理由があるのだろうか。日本語にできる概念であっても片仮名語で言い表せば新鮮な雰囲気が生まれるということなのかもしれないが、片仮名語は英語にうとい学習者にとって意味がぼやけるうえ、元の英語と違って語源を示唆する機能も持たず、何より無駄に文字数を費やすだけなので、なるべく避けるに越したことはない。一般論として、翻訳書を手に取る人々は英語を読めない、もしくは読まないと想定しなければならない。「コスト」や「アプローチ」のように、日本語に定着している単語ならばともかく、それ以上の耳慣れない片仮名語を無闇に使うのは、英語が分かる人だけに開かれたエリート主義的・学力差別的な表現方法だと考える。
また、日本ではここ数年のあいだに批判的動物研究(Critical Animal Studies)の関連書が多数刊行されてきたが――ちなみにそのほぼ全ては私が手がけてきたが――、本書では批判的動物研究が「批判的アニマル・スタディーズ」と、あたかも別物のように訳されているせいで、これまでに刊行されてきた関連書籍とのつながりが見えにくくなってしまっている。これはこの分野の初学者にとっても不親切なことだろう。
一部の学者は英語を日本語に置き換えると元の言葉にあった含みが失われるとの理由から、あえて片仮名表記を用いることもあるらしいが、翻訳家の私からすれば、片仮名語を用いるだけで原語に込められた様々な含蓄を漏らさず伝えられるという思考は理解に苦しむ。「アニマル・スタディーズ」であろうと「動物研究」であろうと、それが英語のanimal studiesを指すという了解さえあれば含蓄を伝える点で問題はない。そして、そのような共通了解をつくることが重要だからこそ、学術的な用語には可能なかぎり統一的な訳語を対応させるべきなのである。
第四に、用語ではないが全編で使われている他の頻出語についても一々不器用な訳し方が目に付く。例えばalternativeという語は、「代替の」あるいは「従来と異なる」などと訳せるが、本書ではなぜか「オルターナティブ【別の選択肢的な】」という不自然な用語もどきの訳語が主として使われている。「代替アプローチ」や「新アプローチ」といえば済むものを、わざわざ「別の選択肢的なアプローチ」などと表現する理由が分からない。本書には出てこないが、例えば「代替肉(alternative meat)」という言葉を、訳者らは「別の選択肢的な肉」とでもいうのだろうか。
重箱の隅をつつくようだが、and/orを「そして/あるいは」「かつ/または」などと訳すのも考えものである。学者はよくこのような訳し方をするが、「A and/or B」は「AやB」あるいは「A、B、またはその両方」とでも言い表せばよいのではないか。こうしたところで愚直になるのではなく、文意を明快かつ正確に伝えることにエネルギーを注いでほしい。
まとめ
各論的批判に先立ち、総評を述べておきたい。
全体的に、本書の訳者らはこれまでに動物倫理や動物擁護の議論で蓄積されてきた基本的な知識を持ち合わせていないとの印象を受けた。動物倫理の研究においても草の根の動物擁護活動においても明確に整理されて用いられている概念を、訳者らはほとんど理解しておらず、さりとてこの分野の先行文献を参照した形跡もない。もちろんそれは、よくないことではあるが、ある程度は仕方ないともいえる。権威ある監訳者の依頼によって駆り集められた翻訳協力者の学生や若手研究者たちは、必ずしも動物研究に強い興味があるわけではないであろうし、語学力や専門知のレベルもまちまちのはずだからである。
問題は、その人々から寄せられた翻訳を取りまとめ、しかるべき訂正を加える役目を監訳者が放棄したことにある――「用語の専制的な統一と確定というプリスクリプティブ【規範的】な姿勢はおおむね退けた」(p.753)などと、もっともらしい理由をつけながら。結果、本書は原書に備わっていたレファレンスとしての機能と信頼性をほとんど失い、学術的使用に耐えないものとなっている。本書の制作に費やされた労力と資源を考えるにつけても、これから本書が日本の動物研究におよぼすであろう悪影響を考えるにつけても、監訳者の責任はきわめて重い。監訳や監修を担う学者は得てして自分の仕事が「直接翻訳をするよりも大変」だなどとうそぶくが、実際のところ監訳者や監修者が責務を全うしている書籍には出会ったことがない。そもそも大学教授がゼミの学生などを動員し、大人数で一冊の本を訳すという日本の習慣自体が異常なのであり、責任が分散することもあってか、そのようにしてつくられた翻訳書は総じて訳語・訳文の水準が極めて低い。偉い学者は手間暇をかけずに自分の業績を増やせて良いことづくめなのかもしれないが、粗悪本の流通は啓蒙の妨げにしかならないのである。本書の評価に立ち戻れば、動物研究という広大な学際領域の事典を手がけるには監訳者の意欲、力量、あるいはその両方があまりに足りなかった、という結論になるだろう。
各論的問題
訂正を要する訳語
以下では問題があると思われる訳語を拾い出し、▶のあとに私なりの修正訳ないし修正案を記した。ほぼページ順であるが、いくつかのページにまたがるものは一括してある。なお、これはあくまで本書を一読した時に見つけた、動物研究の理解に関わる不備を集めたものであって、誤訳を網羅したリストではない。気になった箇所は原文と照らし合わせたが、邦訳の全文を逐一原文と照らし合わせたわけでもない。
p.8
アニマル・スタディーズ【動物論】 ▶ 動物研究
「人種研究」や「ジェンダー研究」など、他のさまざまなstudiesは「研究」であるにもかかわらず、animal studiesだけが「論」に矮小化されるのはおかしい。
p.10
マキシム【法諺】 ▶ 格率
倫理学の基本語。
p.15, 682, 684
インターセクショナリティ【交差】 ▶ インターセクショナリティ【交差性】
インターセクション【交差性】 ▶ インターセクション【交差】
「交差性」はキーワードなので、「インターセクショナリティ」と厳密に対応させてほしい。
p.16
アドヴォカシー【動物擁護姿勢】 ▶ 動物擁護
「姿勢」は不要。
p.24
アドヴォカシー【動物擁護表明】 ▶ 動物擁護
「表明」は不要。
p.24
こうした名称の団体 ▶ こうした流派
ここでは動物研究に関係する「人間動物関係学」や「批判的動物研究」といった諸学の流派ないしアプローチを指している。各流派が「団体」をつくっているわけではない。
p.25
遊戯の相手 ▶ 娯楽の道具
動物研究の文脈でentertainmentといえば基本的にサーカスや動物園などの「娯楽」を指す。
p.25
研究課題としての動物 ▶ 主体としての動物
動物研究では動物の主体性(subjectivity)が重視される。ここでのsubjectは多義的ではない。
p.34
奴隷=動物のアナロジー ▶ 奴隷‐動物のアナロジー
連結詞を=で表す習慣はあるが、ここでは等号にみえて紛らわしい。「ヒューマン=アニマル・スタディーズ」(p.23-4)も同様。
p.32
動物奴隷 ▶ 動物奴隷制
Slaveryは制度なので「奴隷制」と正しく訳してほしい。
p.37
動物奴隷廃止論アプローチ ▶ 廃止論アプローチ
フランシオンの著作タイトルであるが、原語はthe Abolitionist Approachなので、「動物奴隷廃止論」は訳しすぎである。フランシオンは道徳原則に関する議論の中で奴隷制に言及するが、「動物奴隷制」なるものを論じてはいないので、「そのような含意がある」という反論は通用しない。
p.39
動物愛護支持 ▶ 福祉主義の動物擁護
原語はwelfarist advocacy for animalsなので、「動物愛護支持」はかけ離れすぎている。
p.39
ヴィーガン〔絶対菜食主義者〕 ▶ ヴィーガン〔あらゆる動物利用の産物を避ける人々〕
多くのヴィーガンは「絶対菜食主義者」という下手な訳語を嫌っている。「外部」の人々が勝手におかしな定義を用いることはマイクロアグレッションなのでやめてほしい。
p.43
動物奴隷廃止論を過激化する ▶ 動物利用廃止論を根本から改める
動物運動に関するradicalizeを「過激化する」と解釈するのは好い加減にしてほしい。
p.43
黒人弾圧 ▶ 黒人の従属化
原語はsubjugationで、従えることを意味する。従えることと弾圧は違う。
p.43
黒さ ▶ 黒人性
人種差別と黒人奴隷制の話をしているというのに、分からなかっただろうか。なお、このくだりは不備が多いので全面的な訳し直しを要する。
p.47
白いこと ▶ 白人性
白人至上主義の話なので、どうしても「白いこと」にこだわるなら「肌が白いこと」と言ってほしいが、直後に「黒人性」があるのだから、ここは対立項として「白人性」と訳すべき。
p.48
~になぞらえる ▶ ~と並べる
黒人奴隷制を他のさまざまな人間抑圧(植民地化、土地収奪、強制移住、等々)とcompareする論者に触れている箇所だが、それらの論者も奴隷制を他の人間抑圧に「なぞらえて」いるのではない。
p.64, 76
家畜 ▶ 畜産利用される動物
細かいようだが、家畜(livestock)という言葉は動物をモノ化する差別語なので、動物研究では問題視される(本書でもlivestockはカッコ付きでのみ使用されている)。代わりに動物研究の従事者は、主としてfarmed animals、すなわち人間によってfarm(畜産利用)される動物という語を用いる。訳文でも区別しなければならない。
p.59
タクティクス【駆け引き】 ▶ 作戦
駆け引きは作戦や戦術の一部にすぎない。また、同じ言葉がすぐ後では「戦略」と訳されているが、戦略はstrategyの訳語でも用いられているので混同する(p.65)。P.65では「タクティクス」に「策略、作戦」という訳注が付されているので、それならばtacticsの訳語を「作戦」で統一してほしい。
p.75
ヘンリー・スパイラ ▶ ヘンリー・スピラ
p.91
認識論的暴力 ▶ 認識的暴力
間主観的、制度的、認識論的 ▶ 間主体的、制度的、認識的
ディネシュ・ワディウェルの理論を解説した箇所であるが、ワディウェルはガルトゥングがいう「個人的暴力」と「構造的暴力」の区分に則り、前者をintersubjective violence、後者をinstitutional violenceと言い表している。このintersubjectiveは一個の主体が他の主体とぶつかることを意味するので、「間主観的」ではなく「間主体的」と訳すのが適切と思われる。また、epistemic violenceは「認識論的」な暴力を指すと考えてよいのだが、ワディウェルの著作物ではepistemologicalとepistemicが使い分けられているので、拙訳『現代思想からの動物論』では前者を「認識論的」、後者を「認識的」と訳し、区別を図ったことを述べておきたい。
p.100
非人間型動物 ▶ 非ヒト動物
「非人間型」であることと人間でないことは違う。なお、nonhumanの訳語として用いられる「非人間」という訳語は、非人間化(dehumanization)を連想させる点で語弊があるため、再考されたほうがよい。
p.103
家畜飼育 ▶ 飼育下動物繁殖/育種
原文はdomestic animal breedingなので、「飼育」とは違う。
p.104
カークシー ▶ カークセイ
p.138
偶発的 ▶ 散発的
継起的 ▶ 継続的
漁獲というepisodicな暴力が養殖というcotinuousな暴力に取って代わられたという文脈。漁獲が「偶発的」というのはおかしい。「継起的」は繰り返し起こることを意味するので、養殖の性質を言い表すのにふさわしくない。
p.138
魚の命 ▶ 魚の生
管理する生命の個体数 ▶ 管理する集団の生
「命」と「生」は同じだろう、という反論は通じない。ここは生政治に関する話なので正しく訳す必要がある。
p.138
対抗して ▶ 対照的に
古い主権に代わって生権力が台頭したという文脈。生権力は主権に「対抗」しておらず、むしろそれを内に含んでいる。
p.138
生命を死の瞬間まで手放さない ▶ 死へ棄て去る
生権力は生きさせるか死ぬに任せる権力。
p.139, 144
エスポージト ▶ エスポジト
p.140
タナトス政治 ▶ 死政治
Thanatopoliticsが「タナトス政治」ならbiopoliticsは「ビオス政治」でなければならない。なお、この一文は訳し直しを要する。
p.140-1
人種差別 ▶ 人種主義
フーコーの用語は「人種主義」。
p.143, 154-5, 167, 202
人類学機械 ▶ 人間学機械
皮肉なことに、本書は適切な訳語がある言葉を不適切に訳している一方、不適切な訳語が根付いてしまった言葉については当の不適切な既存訳をそのまま踏襲している。アガンベンの「人類学機械」は、意味を考えれば誤訳であり、「人間学機械」と訳さねばならない。
p.143
動物権力 ▶ ズー・パワー【動物権力】
唐突に出てくるこのような単語こそルビが欲しい。
p.140
解剖‐政治学 ▶ 解剖政治
「生政治」と揃えるので「学」は不要。
p.147
解剖的政治 ▶ 解剖政治
訳を統一してほしい。
p.149
子牛解体処理場 ▶ 子牛檻
動物研究の本を手がけるのなら、さすがにveal cratesが何なのかは知っておいてほしい。知らなかったとしても調べてほしい。
p.150
絶えず現前する ▶ 常在する
畜産業において死はever-presentという文脈。「絶えず現前」では意味が違う。
p.150
「廃棄生産物」の「溶出」 ▶ 「廃物製品」の「レンダリング」
レンダリングは常識的な用語。
p.170, 215
工場式畜産動物 ▶ 畜産利用される動物
原語はfarmed animalsで、「工場」に相当する語はない。
p.180
ウェルフェア【幸福】 ▶ 福祉
P.177ではwellbeingに「ウェルビーイング【幸福】」の訳語が当てられているので、welfareとの区別が必要。
p.183
保護 ▶ 保全
環境保護や野生動物保護の文脈ではprotection(保護)、conservation(保全)、preservation(保存)の使い分けに気を付けなければならない。全て違う概念である。
p.193, 473
分節化 ▶ 言明
日本の人文学者はarticulate(言い表す;言明する)という英単語を、何故に「分節化する」などと訳すのか。英和辞典で第一に出てくる字義は必ずしも適訳とはかぎらない、という常識は学者のあいだでも共有されてほしい。
p.199
人間中心主義 ▶ 人間主義
ヒューマニズムは「人間中心主義」とも訳されるが、本書ではanthropocentrismとの混同が起こるので訳し分けを要する。
p.202
差別化 ▶ 差異化
この章は「差異」がキーワードであり、differenciationも一貫して「差異化」と訳しているので、ここだけ「差別化」にするのはおかしい。
p.206
反作用 ▶ 反応
反応と応答の話をしているので、ここだけ「反作用」にするのはおかしい。なお、この文は訳し直しを要する。
p.206
家畜 ▶ 牛
なぜcowsが「家畜」になったのか。
p.206
そうした食肉処理的な動物殺害 ▶ そうした殺害
ここでは意図的殺害と死の放置を比較している。原文はsuch killingなので「食肉処理的な」は蛇足。
p.215
情緒的 ▶ 感情的
キーワードなので正しく訳してほしい。
p.219
アニマル・プレイス動物保護施設 ▶ アニマル・プレイス・サンクチュアリ
「サンクチュアリ」は見出しにもなっている用語なので「動物保護施設」などと訳さなくてよい。日本語にするとしたら「保護園」などが妥当と思われる。「アニマル・プレイス動物保護施設」では「アニマル」と「動物」が重複する。
p.220
ポジティブ【肯定的・好意的】な ▶ 正の
ネガティブ【否定的・非友好的】な ▶ 負の
動物実験における快不快の話なので「ポジティブ/ネガティブ」は「正/負」が妥当。
p.244
cognitive sympathy ▶ cognitive empathy
ただの間違いだと思うが、重要なので修正を要する。
p.259
共生関係をむすばされている ▶ 共形成される
グルーエンがここで述べているのは、絡まり合った諸存在が互いをつくり変えていくという話なので、単なる「共生関係」とは違う。
p.266
監禁給餌システム ▶ 監禁飼養施設
「集中家畜飼養施設」(CAFO)も動物研究の基本語。ここではconfined feeding operationなので上のように訳す。
p.272
キャパシティ【潜在能力】 ▶ 能力
キャパシティ【許容能力】 ▶ 能力
ここまでは「キャパシティ【能力】」という訳語が用いられている。なぜ急に「潜在」や「許容」という言葉が現れるのか。
p.272
個人主義 ▶ 個体主義
これも動物研究の基本語。
p.273, 476, 486, 674
周辺化 ▶ 周縁化
「周辺化」もなくはないが「周縁化」のほうが一般的。なお、p.696の「隅に追いやり」も「周縁化し」の誤りである。
p.273
周辺例からの議論 ▶ 限界事例からの議論
これは絶対に間違ってはならない動物倫理の基本語である。「周縁」に置かれた人々のことを話しているのだからこれでよいのだ、との反論は考えられるが、それならば訳注で正しい訳語を示さねばならない。しかしこれ以外の箇所でも「限界事例」が正しく訳されていないので、単なる知識不足による誤訳と思われる。
p.277-8
別の選択肢を求めるアプローチ ▶ 新アプローチ
「別の選択肢」の問題は既に指摘したが、それを「求める」というのも余計である。
p.327
手なづけ・馴致 ▶ 飼い馴らし
「手なづけ・馴致」ではtamingに思える。Domesticationは「飼い馴らし」もしくは「家畜化」(ここは鳥の話なので「家禽化」)と訳してほしい。
p.328
工場生産 ▶ 産業生産
工場飼育システム ▶ 産業的飼育システム
Industrialな生産や飼育は基本的に工場式畜産を指すが、factory farmingとは訳し分けてほしい。
p.341
所有物 ▶ 財産
すぐ前のページでpossessionを「所有物」と訳しているので、propertyは訳し分ける必要がある。
P.346
ファクトリー・ファーム【畜産農業】 ▶ 工場式畜産
なぜこの基本語が正しく訳されていないのか。なお、この文は訳し直しを要する。
p.346
搾乳用の家畜 ▶ 乳用牛
荷を引く家畜 ▶ 役牛
こんなところで『荷を引く獣たち』へのオマージュを捧げなくてよい。同書の原題はBeasts of Burdenで、本文のdraught cattleとは字面的にも重ならない。
p.349
家畜類の殺処理 ▶ 家畜の取扱い
ここは屠殺ならびにそれと関連するhandlingの話をしているので「殺処理」ではない。屠殺と殺処理が別の工程のように並列されるのはおかしい。
p.353
福祉 ▶ 幸福
しつこいが、wellbeingとwelfareは区別しなければならない。
p.386
相関的行動リアリズム ▶ 能動的リアリズム
原語はagential realismであり、意味を考えてこの訳にしたのかもしれないが、相互作用と「相関的」行動は違うのに加え、本書の訳はagentialの意味から離れすぎている。P.398で「能動的」という訳語を使っているので、それを用いればよいのではないか。
p.388
エマージ【創発】 ▶ 発生
生命が物質から現れることを「創発」などというだろうか。
p.395, 489
ヴィーガン主義 ▶ ヴィーガニズム
「ヴィーガン主義」などというおかしな訳語をつくらないでほしい。
p.395
サンクチュアリ【動物保護地区】 ▶ サンクチュアリ
なぜか本書ではサンクチュアリの訳語が統一されていないが、「地区」は論外。
p.396
政治的適正 ▶ 政治的公正
Political correctnessくらいは現代人の基礎知識として知っておいてほしい。
p.397
スピーシズム【人間優位主義】 ▶ 種差別
基本中の基本語なので間違ってはならない。なお、「スピーシズム」という片仮名語は他の文献でも使われているが、ただの誤りなので葬り去られる必要がある。
p.465
理知的 ▶ 理性的
キーワードなので正しく。
p.465
否定的存在としての人間 ▶ 否定形の人格
ここでいうnegative personはnonpersonを指すので「否定形」とでも訳すのがよい(personの誤訳は先に論じた通り)。なお、この段落は訳し直しを要する。
p.468
所有権 ▶ 財産
「所有権」と「財産」は違う。直前の引用文ではpropertiesを正しく「財産」と訳しているので、そのまま「財産」を用いればよい。
p.470
理性や理知性 ▶ 理性や合理性
Reasonとrationalityはどちらも「理性」と訳される類義語だが、訳し分けるとすれば後者は「合理性」が妥当。
p.475
感情移入 ▶ 共感
本書ではempathyを「共感」と訳しているので統一してほしい。
p.476
生物性 ▶ 生き物性
非生物的 ▶ 非生き物的
直前でcreaturelyを「生き物」と訳しているので(この訳語が良いかはさておき)揃えなければならない。「生物性」「非生物的」では同じ語であることが分からない。
p.487
制度 ▶ 施設
学者の中にはなぜかinstitutionを一律に「制度」と訳す人々がいるが、動物園は「施設」である。
p.487
「保護管理動物」の見世物 ▶ 「保全」の見世物
動物園は野生動物やその管理までを含めた「保全」全体を見世物とする。
p.488
逼迫した生存要求 ▶ 生活条件
ヴィーガニズムが促進される中でマイノリティのneedsが無視されている、という文脈だが、マイノリティの「逼迫した生存要求が……抹消されていた」などというと、ヴィーガニズムの推進者が極悪人のように思える。なお、p.488-9のくだりは総じて訳し直しを要する。
p.490
グローバル・サウス〔南半球の発展途上国群〕 ▶ 南側諸国
南側諸国は南半球だけにあるのではない。
p.489
菜食中心のダイエット食 ▶ 菜食
英語のdietは日本語の「ダイエット」ではない。また、plant-basedは菜食「中心」ではなく、基本的に完全もしくはほぼ完全な菜食を指す。次ページの「菜食中心のダイエット」も修正を要する。
p.490
ヴェジタリアン ▶ ベジタリアン
なぜかここだけ「ヴェジタリアン」の表記が使われている。統一してほしい。
p.490,493
越域的 ▶ 交差的
キーワードなので正しく。
p.491
政治的起源全体 ▶ 包容性を特徴とする政治的起源
ヴィーガニズムがあらゆる搾取に反対するというinclusiveな政治的起源を持つという文脈。Inclusiveは「包容的」「包摂的」などと訳される基本語。
p.492
ヴィーガ(ヴェジタリア)ニズム ▶ ヴィーガニズム/ベジタリアニズム
原語ではveg(etari)anismでしっくりくるが、日本語では再現できないので愚直にならなくてよい。おかしな言い回しをつくらないでほしい。
p.496
知の暴力 ▶ 認識的暴力
ワディウェルの用語なので正しく。
P.558
キャヴァリエリ ▶ カヴァリエリ
P.558
ハイアラーキー【階層秩序】 ▶ ヒエラルキー【階層秩序】
p.560
黄金標準 ▶ 黄金律
p.562
所有物 ▶ 財産
フランシオンは「人格」と「財産」の違いを論じている。また、possessionとの区別も必要。
p.521-2
周辺的事例 ▶ 限界事例
繰り返しになるが、これを間違ってはならない。
p.579
方面/戦線 ▶ 戦線
「方面」は不要。
p.581
保存 ▶ 保全
ここはconservationなので「保全」と訳さねばならない。「保存」はpreservationと勘違いする。
p.586
集中畜産経営体 ▶ 集中家畜飼養施設
CAFOは稀に「大規模畜産経営体」などとも訳されるが、直訳のほうが一般的。
p.594
順応/農業動物化 ▶ 飼い馴らし
変則的な用法とはいえ、domesticationの原義にしたがって訳してほしい。
p.595-6
複眼的 ▶ 複数視点の
単眼的 ▶ 単一視点の
クレア・ジーン・キムの用語。単一の視点からではなく複数の視点から問題の事案を分析すべきというのが彼女の議論である。「複眼的」「単眼的」では昆虫の目を想像してしまう。
p.676
粗探しをしようとする ▶ 率先して批判する
ヴィーガニズムは動物に対する先天的な思いやり指向の表出だという議論に対し、動物研究者が率先して批判を向けてきたという文脈。「粗探し」はひどい訳語。
p.677
一人のヴィーガン ▶ 一ヴィーガン
「一ヴィーガン」であることが当人のアイデンティティをなす、という文脈。細かいようだが、「一人のヴィーガン」であること、というと別の意味になる(孤独を好むなど)。
p.681
ザ・ハッピー・オプレスト【虐げられた幸せ者】 ▶ 幸せな被抑圧者
片仮名では何のことか分からないが、原語はthe happy oppressedで、「人道的」に搾取・殺害された動物を指す。「虐げられた幸せ者」という訳語が悪いせいで、この文は意味が通じなくなっている。
p.684
脱自然化する〔不自然なものに見せる〕 ▶ 脱自然化する〔自明性をゆるがす〕
ヴィーガニズムによって異性愛規範と人間中心主義を脱自然化する、という文脈だが、この訳注はあまりにひどい。脱自然化とは、自然とみなされているものが実は自然でないと暴くことをいう。
p.686
ナチュラル【通常】 ▶ ナチュラル【正常】
「異常」の対義語なのだから「正常」でなければならない。
p.687
不可抗力 ▶ 論理
食肉の生産と消費を支えるlogicと原文にあるが、「不可抗力」という訳語はどこから出てきたのか。
p.687
処理 ▶ 殺害
利用 ▶ 搾取
原語はkilledとexploitedであるが、ここまで婉曲語で言い換えたらもはや別の文章を読んでいるに等しい。こうした婉曲語が「ヴィーガン」の章でも用いられていることに嘆息を禁じ得ない。
p.689
警戒装置 ▶ 予防原則
「予防原則」も動物倫理の基本語。なお、この文は訳し直しを要する。
p.690
かわいらしい愛玩動物 ▶ 愛する伴侶動物
「愛玩動物」を意味するpetという言葉がよくないとの理由から、companion animal(伴侶動物)という言葉がつくられた。なお、この文は訳し直しを要する。
p.690
利得 ▶ 利益
Interestsは基本語なので正しく訳してほしい。
p.696
含めてしまう ▶ 含める
抑圧の交差性を考える際に種差別を含めるのはよいことなので、ネガティブに訳すのは違う。
p.702
それら ▶ かれら
動物研究は動物のモノ扱いを拒むのだから、動物たちを指すtheyを「それら」と訳すのは不適切。
p.704
被造物性(動物性) ▶ 被造物性
「動物性」に相当する原語はない。勘違いするので削除すべき。
p.724
保障することとして矮小化されてしまう ▶ 保障することとなる
「矮小化」云々は訳しすぎ。この文は訳し直しを要する。
p.727
現前 ▶ 表れ
Presenceという日常語を「現前」と翻訳する悪癖は直したほうがよい。無論、デリダの文献に関してはその限りではない。
p.728
ナチュラル・ビヘイヴィア【性質的行動】 ▶ 自然な行動
Natureの多義性を考えての訳語であろうが、「性質的行動」はあまりにも不自然。「自然」をベースとし、生まれつきの特徴を意味するnatureは「自然本性」とでも訳せばよい。
訂正を要する訳文
以下では特に問題がある訳文をいくつか拾い出し、訂正案を提示する。あくまで学術的にとりわけ無視しがたい文だけを列挙したものであり、単なる誤訳は見逃してある。本書にかぎらないことだが、翻訳書の中に意味や構文が分からない文があればとりあえず誤訳とみなして差し支えない。
p.40
[邦訳] 平等を考慮するということは、こう告げるのだ、われわれは同様な利害を分け隔てなく扱うべきである、と。
[訂正訳] 平等な配慮の原則は、同様の利益を同様に扱うよう求める。
フランシオン著作からの引用。「平等な配慮の原則」は基本語。「分け隔てなく扱う」ことと「同様に扱う」ことは違う。
p.44
[邦訳] 「〈人間〉は誕生した。かといって〈黒人〉がすぐに殺されたわけではない。〈人間〉の政治的存在と〈黒人〉の社会的死が共存していたのである」
[訂正訳]「〈人間〉は誕生した。ただし〈黒人〉を殺し、〈人間性〉の政治的存在論と〈黒人〉の社会的死を共存させた末に、である」
白人中心的な「人間」概念が形成される過程で黒人の存在が抹消されたという文脈。二文目の意味が逆になっているせいで文意が通じない。
p.137
[邦訳] 家畜化では、動物は収容され、餌を与えられ、再生産され、殺処理される――個体数の管理・繁殖の促進(必要ならば)・食肉処理(時宜をえたかたちで)のためのテクノロジーの適用によって。
[訂正訳] そこでは動物たちが格納・飼養・繁殖され、死に追いやられる――用いられるのは集団を管理し、必要に応じて生を育成し、しかるべき時期に死へとさらす技術である。
生政治関連の用語を正確に訳してほしい。フーコーの理解がとぼしいので、この章は全面的な修正を要する。
p.206
[邦訳] 応答する能力が依存しているもの、そしてそれゆえに応答する能力が反応せねばならないのは、そうした能力がそもそもの最初に構築され関係づけられる世界なのである。
[訂正訳] 応答する能力はそもそもの初めにそれを形成した諸関係に依存しており、したがってそれに対し応答せねばならない。
邦訳がくどい表現なのは目を瞑るとして(くどい訳し方をしている箇所はほかにもたくさんあるが)、ここでのresponsiveは辞書に逆らってでも「応答」と訳さねばならない。「構築され関係づけられる世界」は意訳を超えて別の言葉になっている。
p.487
[邦訳] けれども、植民地言説に対する、非動物と動物性の比喩の中心的な重要性にもかかわらず、ほとんどのポストコロニアル研究者たちはいまもなお、植民地化された人民に関する記述のなかに動物を含めていないのである。
[訂正訳] けれども、植民地言説の中で人ならぬものと動物性の言辞が中心的な役割を果たしているにもかかわらず、ほとんどのポストコロニアル研究者たちはいまもなお、植民地化された主体を語る際に動物を除外するのである。
「植民地言説に対する……中心的な重要性」では意味が分からない。Subjectを「人民」と訳すのは語義的にも文脈的にも不適切。
p.491
[邦訳] 白人優位と男性優位を特権として享受する人びとが、菜食中心の食習慣を排除することをもくろみ、非肉食系の人びとを一方的に批判して「統制」することは――ベイリーが論じているのだが(Bailey 2007, 44)――、クレア・ジーン・キムが「帝国主義となった多元文化主義」として特定していることの一例かもしれない。
[訂正訳] 菜食をしりぞけるべく、一面的に白人特権と男性特権を批判して非肉食者の「取り締まり」を図るという、ベイリーが論じるところの手口(Bailey 2007, 44)は、クレア・ジーン・キムが「帝国主義化した文化多元主義」と称したものの一例と考えられる。
「ヴィーガンは先住民を抑圧する特権者の白人男性だ」などといって菜食の正当性を否定する者たちの話。
p.589
[邦訳] しかし、フランシオンならびにドナルドソンとキムリッカの批判を拒む現存するサンクチュアリは、哲学と政治理論の調整により出来上がった抽象的要求を台無しにしているのである。
[訂正訳] しかしながら、フランシオンにもドナルドソンとキムリッカにも反し、現存するサンクチュアリは哲学と政治理論が足並みを揃えてつくりあげた抽象的要求を搔き乱す。
ここはサンクチュアリの現場が抽象的な理論の型に収まらない役目を果たしている、という文脈。邦訳は趣旨を真逆に捉えている。一段落全体の訳し直しを要する。
P.685
[邦訳] サイモンセンは、ヴィーガニズムのあらゆるヴィジョンを「抽象的」あるいはユートピアン【空想的】な企てとして却下し、こう提案する――ヴィーガニズムは、アイデンティティ政治を回避し、実践のもつ流動性や生産性を受け入れるべきである、と。なぜなら実践の持つ流動性や生産性こそが、異性愛規範的イデオロギーならびに人間規範的イデオロギーをともに転覆させるのだから。
[訂正訳] サイモンセンは、ヴィーガニズムを「純粋」もしくは一種のユートピア的取り組みとみなす解釈をしりぞけ、こう提唱する――ヴィーガニズムはアイデンティティ政治を避け、むしろ異性愛規範と人間規範のイデオロギーをともに覆す諸実践の流動性と生成力を受け入れるものなのだ、と。
邦訳は前半において文意を大きく取り違えている。後半では限定用法のthatを非限定用法として捉えている。
p.688
[邦訳] 彼女は問う。飼われ、処理され、食べられる動物たちの数が激増しているなかで、なぜヴィーガン実践が、関連分野への挑発行為にとどまりつづけ、なぜヒト以外の動物を「いたましく、傷つきやすく、そして価値がある〔……〕」(505)ものとして位置づけようとする「アフェクティヴ【情動的】フェミニスト実践」を求めるだけなのか、と。
[訂正訳] ジェンキンスは、飼われ殺され食べられる動物たちの数が激増しているなか、ヴィーガンの実践がこの分野に刺激を与え続けているゆえんを問い、ヒト以外の動物を「いたましく、もろく、かけがえのない存在」(505)と位置づける「情動的フェミニズムの実践」を求める。
原文のthe fieldは動物研究そのものを指す(関連分野ではなく)。「なぜ」以降はwhyのかかり方を誤解している。ジェンキンスは「情動的フェミニズムの実践」を支持する立場なので意味が逆。
以上は氷山の一角にすぎない。こうした誤訳のうち、大半は監訳者が最低限のチェックを行なうだけで発見できたはずのものである。したがって推測ではあるが、監訳者は翻訳協力者から寄せられた原稿にほとんど目を通さなかったものと疑われる。目を通してなおこれらの誤りを看過したのだとしたら、それはそれで大問題である。猛省を促したい。
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