搾取の後押しにならない動物消費は許されるか

ビーガニズムは動物搾取に反対し、搾取の需要を生まないために動物製品の不買を実践する。これに対し、明確な加害性がみられない動物利用、あるいは搾取の需要を生まないと思われる動物消費について、ビーガンはどう考えるのか、ということがしばしば議論される。この問題について法学者のゲイリー・フランシオンが興味深い記事を書いているので、以下に全文を訳出することとした。終生飼育をうたう放牧養鶏や培養肉の消費などについても示唆するところがあるため、関連する問題に興味を寄せる人々の参考に供したい。




道端の死体、見捨てられた卵、廃棄物探し

2012年7月14日 ゲイリー・L・フランシオン


よく訊かれることの一つに、車にひかれた動物の死体、伴侶として飼われる雌鶏が見捨てた卵、あるいはゴミ収集箱に入っていた動物性食品を食べるのは「ビーガン」か、という問いがある。

端的な答は、ノーである。

なぜか。これらの行為は動物性食品の需要を直接増すことにはつながらないが、象徴的次元で大きな問題をはらむからである。それは動物性食品が消費の対象になるという考えを強化する。動物たちがモノであり、人間の資源だという考えを強化する。動物消費という社会的慣行を強化する。直接の後押しではなくとも需要を強化する。

ではその行ないを誰も目にしないとしたらどうか。その場合、それを観察する者も関知する者もいないのだから、誰に何を象徴する行為にもならない。需要を強化することもない。

しかしあなたはそれを観察し、関知している。あなたは動物を消費する行為に参加している。その儀式は、動物たちを搾取してよいモノとみなす種差別的な讃美なしでは何の意味もなしえない。

ビーガンであるとは、動物たちを人間の消費物とみなす考えに対し、拒否を突き付けることを意味する。動物たちは商品ではない。資源でもない。

ゴミ収集箱に人間の腕が入っていてもそれが食品にはならないように、動物たちも食品ではない。

私たちは人間を食べようなどとは考えないだろう。人間は道徳的な人格(*1)である。私たちは人格を食べない。そして人ならぬ動物たちも人格である。かれらは道徳的価値を宿す。その身体とそこからつくられる製品は、私たちが食品と考えてよいモノではない。たとえそれが死体の形で道端に転がっていようと、ゴミ収集箱に入っていようと、あるいは雌鶏が食べない無精卵(*2)のように、そのつくり手が手放したものであろうと。

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あなたがビーガンでないなら、ビーガンになってほしい。ビーガニズムは非暴力の実践である。第一にそれは人間以外の情感ある存在に対する非暴力に関わる。が、同時にそれは地球への非暴力、そしてあなた自身に対する非暴力でもある。

世界はビーガンである! あなたがそれを望むなら。


元記事リンク:https://www.abolitionistapproach.com/road-kill-abandoned-eggs-and-dumpster-diving/




【訳注】

*1 ここでいわれる「人格」は英語のperson、すなわちモノ(物件)の対をなす利益保有者ないし権利主体であることを意味する。無生物の企業が「法人格」といわれるように、人格は人間とはかぎらない。「人格」という訳語に惑わされないよう注意されたい。詳しくはフランシオン『動物の権利入門』を参照されたい。


*2 雌鶏はエネルギーと栄養分を補うために、みずからが生んだ無精卵を食べることがある。したがって放牧であろうと何であろうと、鶏から卵を奪うことは加害となりうる。ここではその事実を踏まえたうえで、ならば鶏が食べずに放棄した卵を人間が食べるのはどうか、という問題を考えている。この問題についてはフランシオンの動画「Thought of the Day: Backyard Chickens」も参照されたい。



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