動物の権利がフェミニズムの問題である5つの理由

現代の動物擁護論はフェミニズム理論から多くを学んできた。アメリカではとりわけ、キャロル・アダムズやジョセフィン・ドノバンらを筆頭に、エコフェミニストらが男性中心的な動物擁護と人間中心的なフェミニズムの双方に反省を迫ることで理論の発展を支えてきた。

しかしながら日本では、かつて菜食料理研究家の鶴田静氏により、アダムズの著書『肉食という性の政治学——フェミニズム―ベジタリアニズム批評』が翻訳紹介されたことを除けば、フェミニズムと動物擁護の結び付きに光が当てられたためしはほとんどなかった。このテーマを扱った研究も少なく、両運動の相互理解はいまだ進んでいない。

この状況に一石を投じるものとして、先ごろ刊行された雑誌『現代思想』のインターセクショナリティ特集では、森田系太郎氏の論考「〈交差性〉を脱人間中心主義化する」がエコフェミニズムの議論を整理しており注目に値する。また、近日刊行される拙著『動物倫理の最前線——批判的動物研究とは何か』は、フェミニズムと動物擁護の関わりを本邦で初めて包括的に解説する。

社会正義の連帯が切実に求められている今日、フェミニズムと動物擁護の相互理解はますます重要性を増していくものと考えられる。そこでここに、フェミニズムの教育サイト、エブリデイ・フェミニズムより、「動物の権利がフェミニズムの問題である5つの理由」と題された記事の全訳を掲載する。著者のアフ・コー(Aph Ko)は近年注目されているビーガンのフェミニストであり、人種・ジェンダー・動物擁護などのテーマを交差した著書 Racism as Zoological Witchcraft: A Guide to Getting Out (2019) やAphro-ism: Essays on Pop Culture, Feminism, and Black Veganism from Two Sisters (2017, 姉Syl Ko との共著) を発表している。本記事はフェミニストの読者へ向け、動物を取り巻く倫理問題の重要性を説く内容となっているが、同時に動物擁護の従事者がフェミニズム理論の意義を理解するうえでも役に立つだろう。ささやかながらこれが両運動の交流を促す一契機となることを願いたい。

なお、原文には多数のリンクが付されているが、そのいくつかは現在アクセスできなくなっているため、以下の訳文では有効なリンクのみを貼付した。


動物の権利がフェミニズムの問題である5つの理由

2014年12月30日 アフ・コー


動物の権利はフェミニズムの問題にほかならない。そう、私はそう断言する。

事実、動物生命と動物身体の客体化と搾取は、フェミニストの徹底した検討にかけられる必要がある――フェミニズムの真髄はつまるところ、恣意的に指定された「優越」者たちを利するべく特定の者の利益と主体性を否定する父権制の行ないに挑むことにあるのだから。

さらに恐ろしいのは、動物たちが脆弱であるという認知が、暗にその虐待を正当化していることである。

つまり、動物たちは仕返しができず、同意を示すことも拒むこともできず、抵抗を組織することもできない。ゆえに人間である私たちは、通常その利益に「気を配る」という装いのもと、かれらに好きなことをしてよいと感じるのである。

私たちは普通、何重もの障壁によって、動物たちの現状が抑圧的であるという理解から隔てられている。したがって一部のフェミニストがそれをフェミニズムの問題と捉えている理由は、すぐには分からないかもしれない。

けれどもこれは間違いなくフェミニズムの問題である。5つの理由を示そう。


1.動物の身体も客体化されている。

客体化されるとは、ある者の身体と生命が他者の便益のためにあることをいう。

フェミニストである私たちの多くは、メディア上の女性身体が問題となった時には、客体化のレトリックをよく理解できる。例えば周知のように、女性は男性の物語でたびたび性的な小道具へと落とし込まれる。また、女性が日常的にレイプ・殴打・ハラスメント・殺害に遭うことも知っている。私たちは男性に快楽を与える客体とみられがちで、みずからの喜びを経験する十全な情感を持った主体とはみなされにくいからである。

ジーン・キルボーンがいうように、「人をモノ、ないし客体へと変えることはほぼ常に、その人物への暴力を正当化する第一歩となる」。

他者の身体を客体化する者は、その身体を自分の特定の目的に資するモノとみることになる。

同じように、人ならぬ動物の身体は(文字通り)肉感的なモノへと落とし込まれる。消費してしまえるモノ、あるいは苦痛をおよぼす非倫理的な科学プロジェクトで使えるそれである。

動物身体は「満たざるもの」とみなされる。かれらは文化的に、痛みや喜びや種々の感情を持ち、社会ネットワークの中に生きる独立した存在とはみなされない。ゆえに動物たちは凄惨な暴力システムの中に置かれ、それは大概、疑問視すらされない。

客体化の観点を通すと、私たちが動物に無配慮となるよう条件付けられている結果、かくも多くの産業でマウスや猿、豚、兎、その他の人ならぬ動物たちが恐ろしい科学実験に利用されているゆえんも理解できる。シーワールドのような娯楽産業でかれらが過酷な状況に置かれ、さらには人々の笑いを誘う意図から映画やCMで霊長類が同様の状況に置かれているゆえんも理解できる。

人間以外の動物たちが感情を持ち、苦痛や抑鬱を経験できるなどのことを私たちが考えだすと、文化的な不都合が生じる。

動物の客体化は見事に成功したので、かれらは完全に主体性を剝ぎ取られた――動物は私たちのために存在する。


2.動物身体はレイプ文化を普通化するために利用される

動物は性別で分けられる。したがって動物の身におよぶ拷問はその性別特有の形をとり、当然ながら雌の動物たちにとっては生殖能力が身体統制の大部分を決定づける。

工場式畜産でも、さらには「人道的」農場の慣行でも、強制的な性交と暴力的な抑圧システムが制度化されている。毎年殺される動物の大部分は工場式畜産システムに組み込まれている。雌の動物は繰り返されるレイプと休みない妊娠の一生を課され、「使い尽くされた」後は屠殺される。

「レイプ・ラック」――人工授精のあいだ動物を拘束する器具の正式名称――は牛や豚などの動物を絶えず妊娠させるために使われる。鶏は圧倒的な量の卵を産ませる目的で育種されるが、これはその身体に計り知れないストレスをおよぼし、苦痛を伴う卵づまりのような生殖器系疾患を引き起こす。

フェミニストにとって、レイプ文化と闘いながらレイプと拷問を被る人間以外の動物身体を消費する行為は、よくよく考えてみるべき問題と思われる。

女性身体の制度的統制に関わる問題はほかにもある。


3.家庭内暴力は動物を害する

動物虐待はさらなる残忍行為の手がかり」と題した『ニューヨーク・タイムズ』紙の記事によれば、民主党のコネチカット州議会議員ダイアナ・S・アーバンはこう語った。「動物虐待はFBIの性格分析官が将来の暴力行動を予測するために参照する4つの指標の1つです」。

若い頃に人間以外の動物を傷つけることと、その後に人間を害することのあいだには明確な相関関係がある

アメリカ人道協会によれば、児童虐待がみられた家庭の88パーセントでは動物虐待も行なわれていた。避難用のシェルターを探す女性たちの半数は、暴力を振るうパートナーがペットへの危害をちらつかせると証言した。

児童や女性に対する暴力と人ならぬ動物に対する暴力の結び付きから分かるのは、父権制が私たちの中でも、マイノリティ化され、しばしば力を奪われた者たちに害をおよぼす実態である。

現にDV被害者用のシェルターやセーフハウスの多くは人間以外の動物も受け入れる。女性たちは動物伴侶を連れて行けない場合、その命を懸念して虐待家庭を出て行けない傾向があると分かっている。女性に対する暴力と人ならぬ動物に対する暴力のあいだにこのような強い相関関係があるため、現在では多くの州が動物虐待を対象とする重罪級の懲罰を設けている。

暴力は交差的であり、ゆえに暴力をなくす私たちの運動もそうでなければならない。人ならぬ動物たちも父権制のもとで苦しむのである。

交差性といえば――


4.交差性の枠組みは全ての被抑圧集団を含まなければならない

フェミニズム系のコメント・スレッドを読むと、大抵どこかで「動物でさえも女性よりは大事に扱われている!」という文言が現れる。他のデモンストレーション・サイト、例えば近年のファーガソン抗議〔マイケル・ブラウン射殺事件に対する抗議〕のそれでさえも、「マイケル・ブラウンに比べれば犬のほうが敬われている!」といった言葉がみられる。

人間以外の動物を取り巻く言語は道徳的序列を用い、ある身体は他のそれよりも価値がある、ひいてはある集団の苦境が他集団のそれよりも重要ないし重大であるとほのめかす。

同様の態度は人間を取り巻く言説にも映し出され、一集団の権利闘争が他集団の権利闘争よりも注目に値する、などの想定となって表れる。あるいは2つの集団がともに抑圧されている中、一方が他方よりも良い扱いに値する、と考えるのもそれに当たる。

この態度の最たる例はトランス排除的なラディカル・フェミニズム(TERF)にみられる。そこではシスジェンダーのフェミニストらが、トランスジェンダーの人々は自分たちと同様の抑圧を受けていないとの考えから、後者の人々を排除する。

あるいは人種差別がフェミニズムの目標に関係しないと考える一部の白人フェミニストを振り返ってもよい。彼女らは「ジェンダーにもとづく」抑圧のほうが切実な問題だと考えるが、有色女性らは人種化されたジェンダー抑圧を経験している。

交差性の枠組みはこうした態度と向き合うことを助ける理論的発展の1つである。交差性の枠組みは種々の抑圧システムの繫がりを理解するのに役立つ。

現実はこうである――有色人種、女性、障害を持つ人々、LGBTQIA+ のコミュニティ等々は大変な境遇に置かれている。そして動物たちも大変な境遇に置かれている。まして肉としてであれ乳製品としてであれ、消費できるかぎりでのみ有用だとみなされる動物たちは。

各集団がどれだけ大変な境遇にあるかを「ランク付け」しようとすること、私たちの注意はいずれか1つの集団の権利闘争に向けられなければならないと考えること、ある時点で1つの集団に注意を傾けるなら他集団は軽んじられている、もしくは「マシ」と思われているんだと考えること――これらはいずれもナンセンスである

こうした抑圧の諸側面は全て、同じ悪のシステムの副産物であり、この悪は白人至上的父権制を色濃く反映している。

ある集団が他集団よりも「良い扱いを受けている」と述べる者は、これら諸々の抑圧が絡み合い、互いを支えにまでしている現実を完全に見落としている。


5.私たちの社会は動物にまつわる嘘も広める

フェミニストの私たちは、問題のある行動を自然化するために文化的台本が利用されることを知っている。

周知のように、「男子は男子になる」という台本は、男性が暴力的・破壊的行動の咎を免れる理由について批判的に考えることを妨げる。「まぁ、男の子は本来そういうものだよ」と言うほうが、特定の振る舞いにおよぶ文化的身体を生み出すジェンダーのシステムと向き合うよりも楽なのである。

また、映画が主として裸体の男性ではなく裸体の女性を目玉にする理由として、「まぁ、男は女よりも性欲旺盛なんだよ」と語る台本も目にする。これはレイプが起こる理由の説明としても用いられ、非対称な性的力関係を自然化する。

同じように、動物食の場にも台本が存在し、おぞましい抑圧システムを自然化する。多くの人々は「肉を諦めるなんてできない」「チーズが大好きだからビーガンは絶対無理」などと言う。

チーズやハンバーガーは現においしいかもしれないが、こうした台本は人ならぬ動物たちが拷問と屠殺とレイプに見舞われる制度的現実から人々の目を逸らし、私たちが動物を食べて味覚的な中毒を満たせるようにする。

いかなる社会正義運動も、暴力への無関心を養うことがあってはならない。

文化的台本は神話と伝統を永続化させる。例えば蛋白質は動物身体からしか得られないという伝統的な語りがあるが、実際には同程度に良質な蛋白源がほかにもある。

また、「人道的」な動物殺しは工場式畜産よりもマシだという神話を考えてもよい――「人道的」と「殺し」が繫がると考えるとは奇妙な神話である。加えて虐待は「放牧」農場でも蔓延している。

台本は私たちが問題含みの行動について思い悩まないでいることを可能にする。おかげで私たちは、自力で選択できる事柄についての責任から目を逸らすことができる。

***

フェミニストとして、私たちは自分が消費する食品をはじめ、一見何でもなく思える生活上の諸事をも政治化する必要がある。シスター・ビーガン・プロジェクトを立ち上げたエイミー・ブリーズ・ハーパー博士はこう述べる。

私はそもそも食品を「日々の何でもないもの」と見ることができません。食品に与えられた意味は物事に関する文化全体のイデオロギーを映し出すものだと理解しています。例えば食品は、セクシュアリティに関する社会の期待、性別役割、人種的な権力や能力の序列を物語ります。

食をめぐる批判的な問いに向き合うこと、フェミニズム理論の中で語られる身体を捉え直すことは、私たちの心身を白人至上的父権制から脱植民地化するための第一歩となる。

以下に、より詳しく学びたい人のための秀逸な情報源を挙げたい。

Sistah Vegan Project

Vegan Feminist Network

Food Empowerment Project

The Academic Abolitionist Vegan


本稿の執筆に協力してくれたシル・コーに厚くお礼申し上げたい。



ペンと非暴力

翻訳家・井上太一のホームページ

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