ベンサムの一節に関する覚書

動物倫理学の議論では、よく知られている通り、ジェレミー・ベンサムが書きつづった動物に関する考察がしばしば言及される。元の文章はベンサムの主著における一つの注釈に過ぎなかったが、ピーター・シンガーがこれを『動物の解放』に引用して以来、くだんの一節は重要な意味を帯びるに至った。

ところが、日本で刊行された関連文献を読むと、このくだりが正しく翻訳されている例は一つも存在しないことに気づいた。肝心な部分は問題ないのであるが、その手前にある一文が、どうにも訳せないようなのである。また私見では、問題ない部分についてもあまりこなれた訳を見かけない。この状況を放置しておくのも不健全に思ったので、以下に原文の一部抜粋と私訳を載せ、簡単な解説を付記することとした。


…… The French have already discovered that the blackness of the skin is no reason why a human being should be abandoned without redress to the caprice of a tormentor. It may one day come to be recognized that the number of the legs, the villosity of the skin, or the termination of the os sacrum are reasons equally insufficient for abandoning a sensitive being to the same fate. What else is it that should trace the insuperable line? Is it the faculty of reason or perhaps the faculty of discourse? But a full-grown horse or dog is beyond comparison a more rational, as well as a more conversable animal, than an infant of a day or a week or even a month, old. But suppose the case were otherwise, what would it avail? the question is not, Can they reason?, nor Can they talk? but, Can they suffer?

……フランス人は既に、肌の黒さは人間を救いもなく虐待者の気まぐれに委ねてよい理由にはならないと悟った。いつか、脚の数や肌の毛深さ、あるいは仙骨の先もまた、感覚ある存在を同様の境遇に委ねてよいとする充分な理由にはならないと認められる日が来るかもしれない。ではそれ以外で、越えられない線を引くべきものは何か。思考能力、あるいはもしや会話能力か。ただし、おとなになった馬や犬は、生後1日、1週間、いや1カ月経った幼児と比べても、はるかに理性的で話しかけやすい動物である。しかしそうでなかったとしてもそれが何だというのか。問題はかれらが思考できるか、会話できるかではなく、かれらが苦しみを感じられるかどうかである。


いずれの書籍でも正しく訳されていないのは、"But suppose the case were otherwise, what would it avail?" の一文である。念のため、教養あるネイティブ・スピーカーの方にも確認したが、この文は上の意味が正しい。つまり、動物たちに思考能力や会話能力がなかったとしても、その事実が道徳的な線引きの位置を決める上でどう役立つ(avail)というのか、という内容である。以後、上の一節を引用する諸氏はこれを参考にしてほしい。

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